◎妻のイビキをボイス
深夜、妻のイビキが酷かったものですから、こそ〜っとLineのボイスで2つ録り、送っておきました。
朝「なんね、勝手に人のイビキ録ったりして、失礼かあ?
何かなと思った……
自分のイビキを初めて聞いた」
「そらぁ良かったやんね」
「お父さんのイビキはこんなもんじゃなか…
シッー…ガァー…グゥー
……動物のごたる?
…私のなんか可愛かもんよ」
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◎戦艦大和慰霊搭 (枕崎市・火之神公園)
すごいですね?日帰りで枕崎市までとは本当にお元気かくしゃくですね?奥様のお写真もお見受けしました。夫婦で80歳以上まで元気の因を貰った感じです?枕崎市の戦艦大和慰霊搭 、私も機会があれば、次の鹿児島交流があれば、その時にでも是非行きたいと思います。
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◎支部総会
当初9月29日だったのが選挙で延期になっていました。支部長の執念???
??前進地区のアピールポスターは娘が。
わが娘、内と外では全然違う。?
??80歳の地区婦人部の黒田節、青年部アピール、各地区アピール、体験2代、支部婦人部長、支部長、大いに盛り上がりました。
??梅村副会長(九州総合長)
?私にとっても28歳の時、税理士会試験に向けて、本気になって決意した『分岐点』となった方。『やり抜く事?』。その時初めて妻の膝の上で男泣きしました。?
『心こそ大切なれ』
−−心は難しい。見えないから。
その人が今どんな心かが大事。
皆さんが大好きな−−
「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を」
冬は必ず春となる。
大事なことは−−
「法華経を信ずる人は−−
『冬のごとし』」
−−冬?
決して薔薇色ではない。
そんな信仰があったらそれはにせ物。
選挙も勝った負けたはあるけれども、
お題目をあげながら、
一人ひとりにお願いしていった、
相手の成仏の因と
私どもの福運は、
決して消えることはない。
ずっと残っていくんです。
反発した人も全部救われていくんです。
むしろ反発した人の方が早く縁する。
全部意味があるんです。
題目をあげると、宿業が叩き出される。
そして『冬のごとし』 ですよ。(笑)
そこが厳しいんですよ。
そこがほかの宗教とは違う。
でもそこが分岐点。
そこで信心をやめていく人もいる。
厳しいんです。
『やり抜くこと』が大事なんです。
しかし死ぬまでに必ず成仏する、
というのがこの信心。
いや〜私は宿業が深いから(笑)
一生どころか来世までかかります(笑)
という人もいるけど。
学会は忙しい?
生きている間に成仏するのは間違いない。
信心しているのになんで?
信心をやり抜いたら必ず成仏する。
心は常に動く
“どんな気持ちで題目あげているか”が大事
題目あげながら仏壇吹いている人もいる(笑)
心は“掃除”(笑)
何を祈ったか−−その心
一年365日毎回毎回
繰り返し繰り返し祈っていく
でもやっぱり今年は本当に忙しかった!!
来年は『栄光の年』
みんなが『栄光』を勝ち取っていく年?
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??久しぶりの壮年部も来ていました。
「お?よく車ですれ違うときは“疲れた〜”という顔しているけど、今日はスッキリしてるね」
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??熊本城近くから駆けつけた夫婦とも、終了後、関与先のカフェ?でお茶しました。なんと定年退職した元の会社に、同じ給料で再就職、片道一時間半を早めに帰り、地区部長として頑張っているとの事。奥さんは支部婦人部長で妻と短大時代からの親友。私の“言い出しっぺ”で愛のキューピット?
??
??帰宅後、娘に−−
「恵ちゃん、今日は頑張ったから今夜、発狂するんじない?」
妻「もう出らんねぇ」
娘「………」
私「法華経の行者は冬のごとし!!…よ」
◎直虎
家康「敵を味方に付ける力を付けよ?」
武田家の滅亡?
なかなか見応えがあります。
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蓮盛抄 p.150 建長七年 三十四歳御作
第二章迦葉への付嘱の真意を明かす
【本文】
涅槃経の三に云く『若し法宝を以て阿難及び諸の比丘に付属せば久住を得じ何を以ての故に一切の声聞及び大迦葉は悉く当に無常なるべし彼の老人の他の寄物を受くるが如し、是の故に応に無上の仏法を以て諸の菩薩に付属すべし諸の菩薩は善能問答するを以て是くの如きの法宝則ち久住することを得・無量千世増益熾盛にして衆生を利安せん彼の壮なる人の他の寄物を受くるが如し是の義を以ての故に諸大菩薩乃ち能く問うのみ』云云、大小の付属其れ別なること分明なり
【解説】
この文は仏が、法宝を阿難や大迦葉など声聞の比丘たちに付嘱すると“久住”することができないが、もろもろ菩薩たちに付嘱すると久住することができるので、無上のぼさつたちに付嘱すると述べたものである。
先に禅宗側が涅槃経巻2の文を引いて「無上の正法」が迦葉に付嘱されたと主張したのに対し、同経巻3のこの文では「無上の仏法」は阿難や大迦葉に付嘱せず諸菩薩に付嘱すると述べられているのである。
「無上の正法」も」「無上の仏法」も言葉は同じであるが、一方では迦葉に付嘱するといい、もう一方は迦葉らには付嘱しないと言っている。
明らかに、言葉は似ていても「正法・仏法の」の中身は別なのである。ここから仏は付嘱といっても、声聞の比丘たちと菩薩たちとは別々の「法」を付嘱したことが明らかである。前者が小乗であり、後者が大乗であり、「大小の付嘱別なること分妙なり」と大聖人は仰せられているのである。
なお阿難・大迦葉の声聞の比丘たちが「無常」で「老人」に喩えられているのに対し、もろもろの菩薩たちは「善能く問答するを以て…無量千世増益熾盛にして衆生を利安せん」ことをもって「壮なる人」に喩えられているが、この対比のなかに小乗と大乗の相違が明確に説かれている。
小乗は声聞の比丘たちのためにだけ利益をもたらす、“小さな乗り物”にすぎない。
したがって、この声聞たちに付嘱された法とは、彼らだけを利益するもので、無常の彼らが亡くなると法も消滅する。
ここから、彼らは死が時間的に迫っている老人に喩えられるのである。
これに対して、もろもろの菩薩たちに付嘱される法は大乗の法であり、よく多くの人たちと問答しながら法を伝えていくので、この法は無量千世という長い年月にわたってますます豊かになって一切の衆生を利益していく、このゆえに、菩薩たちのことをまだまだ未来ある壮人に喩えられているのである。