◎徳川家康24巻
??「それにしても恐ろしいお方じゃ真田どのは」
「いや、われらだけではない。人間とは、時におろか、時に正直、そして時にはおそろしい魔ものでござる」
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こんどは柳生宗矩(むねのり)もハッとしたようだった。
事件は早急に片づける…とは、いうまでもなく、豊家の片をつけよということ………その急先鋒が伊達政宗………そう秀忠に思わせておくため細心な彼の用意であった。
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◎地区部長と家庭訪問
壮年部7軒。会えたのは2人だけど。
『縮む公明』と言われても、
「壮年部はもともと縮んどる」
広宣流布は地道に行くしかない。
「今日も仏道修行させて貰いました」
「此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄241ページ)
「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」
(報恩抄 310ページ)
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◎夕飯時
妻「今日は品数の多かろ?」
私「うんそうね」
「なんか言うことなか」
「饅頭ありがとう」
「やっぱり構もうてほしかっちゃんね……思い存分活動できるのもお父さんのお陰………もう少し大事にせんといかんねと思うたたい」
「紅葉は喧嘩で飛んでしもうた」
(代理店からはまだ電話あってないようだ)
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◎903ページ 寂日房御書
「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり」
功徳があるとかないとかで信心するのではない。あきらめろ?喜んでするんだ?
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蓮盛抄 p.150 建長七年 三十四歳御作
第二章迦葉への付嘱の真意を明かす
【本文】
仏より付属する処の法は小乗なり 悟性論に云く「人心をさとる事あれば菩提の道を得る故に仏と名づく」菩提に五あり何れの菩提ぞや 得道又種種なり何れの道ぞや 余経に明す所は大菩提にあらず又無上
道にあらず経に云く「四十余年未顕真実」云云。
【通解】
しかしこの時、迦葉に仏から付嘱された法は小乗である。悟性論に「人が心を悟ることがあれば菩提の道を得る。ゆえに仏と名づく」とある。だが菩提にも五種がある。どの菩提なのか。得道もまた種々ある。どの得道なのか。法華経以外の諸経に明かすところは大菩提ではない。また無上道ではない。無量義経には「四十余年には末だ真実を顕さず」とあるとおりである。
【解説】
次いで、悟性論を引いて仏の菩提や菩薩を得る道という点についても、幾つかの種類があることを明かされ、所詮、40余年の間に説かれた「余経」の爾前経に明かす菩提や得道は大菩提でもなければ無上道でもない、と破折され、更には無量義経の「四十余年には末だ真実を顕さず」との文を引用されこれを裏づけられている。