◎Suica
コンビニを出て車に乗ろうとしてたら
「あの〜、これ?」
「あ、ごめん、また忘れるところだった」
家で…………
妻「ぼ〜としてるけんたい」
私「店員さんのあんまり綺麗かったから魅とれとった?」
「どんこんしょんなか(どうしようもない)?」
?
◎『首相の解散権制約』不毛?
枝野の被害妄想ですね?
どうしてこんな人間が出来上がるのかな?
ベースは『嫉妬』かな。
女(蓮舫)の嫉妬は真っ赤っかだけど、
男(枝野)の嫉妬は真っ黒毛?
韓国の大統領と似てるな?
やっぱりサヨク
「自己主張は激しく、自分が可笑しいと思っていない」
妻「お父さんもそういう時期あったやんね!!」
「………?そっかあ、彼も人間革命の途上か、題目を送ってあげよう…南無妙法蓮華経?」
?
「私はお父さんに南無妙法蓮華経!!」
?
◎ディーン・フジオカ
妻「かっこええ〜?どうしてこんなにかっこええの?!??」
「横見たらガックリくるやろ?」
「いや〜お父さんが一番やけん」
?
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
2017.10.31
真言見聞 p.149 文永九年七月
第17章 文証無き邪義を説く真言を難ず
与三位房日行 五十一歳御作
性悪の義について
性悪とは、本性としての悪ということで、本性としての善である性善と対語である。また、修悪と修善という対語もあり、修悪とは行為としての悪、修善は行為としての善、である。いずれも、天台大師が観音玄義巻上のなかで使用している言葉である。
「闡堤(せんだい)は修善を断じ尽くして但性善のみあり、仏は修悪を断じ尽くして但性悪のみあり」とある。ここでは、善の代表である仏と悪の代表である闡堤とを対比させて論じられている。その意味は、悪の代表のような一闡堤は行為としての善は断じて行わないが、それでも本性としての善を有しているから仏になる可能性をもっている。その反対に、仏は行為としての悪は断じて行わないが本性としての悪は有している、というものである。
更に、仏が性悪があるということについて、同玄義では「仏は性悪を断ぜずと雖も、而も能く悪に達す。悪に達するを以ての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度す」と述べている。つまり、仏は本性としての悪を具えていても、能く悪の本質に通達しているために、自在にもろもろの迷いや悪の法門を用いて衆生を教化することができるのである。
この性悪の義は十界互具・一念三千の法門に基づいてこそ初めて成り立つのであり、仏や菩薩の衆生救済を裏づける原理となるのである。仏や菩薩が性悪を有するからこそ、六道輪廻の迷いの世界に出現して、苦しむ衆生の機に応じてさまざまな姿や身体を現じ、自在に法を説いて救うことが可能となるのである。
一闡提(いちせんだい)
略して闡提=せんだいと呼称する。
仏法を信じず誹謗する者をいう。