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2017.5.13

2017年05月14日 (日) 02:30
2017.5.13

昼は所用で博多行き、帰ってきて夕飯のあと新聞読んでたら、薬のせいか眠たくなり、目が覚めたら10時半、それから夜な夜なスポーツクラブへ。?

昨年までだったら土曜日のこの時間だったら、夜な夜な飲みに行ってたのに、我ながら「俺も変わったなあ」?


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真言見聞 142ページ
第二章 謗法が堕獄の業因なるを明かす
文永九年七月 五十一歳御作 
与三位房日行

法華経には「則ち一切世間の仏種を断ず」と説く是を一闡堤と名づく

<通解>
このことを法華経には「すなわち一切世間の仏種を断ずる」と説かれ、この者を一闡堤と名づける。

<解説>
法華経譬喩品第3からの引用文である。より詳しくは「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」という文である。内容は法華経を信じないで誹謗する人がいるとすれば、その人は自身に内在する仏種を断ち切ったものであるというものである。

天台大師は法華文句巻6上で「世間の仏種を断ず」という句を釈して、次のように述べている。すなわち「今経には小善の成仏を明かす。此れ縁因を取って仏種と為す。若し小善の成仏を信ぜざれば、即ち世間の仏種を断ずるなり」と。ここでは「世間の仏種」の“仏種”について、天台の立てる三因仏性のうち縁因仏性をさしているとしている。

縁因仏性とは人界や天界の衆生が行う俗世間上の小さな善根や善行がそのまま仏になるための縁になることをいう。これは法華経の開会の法門によって初めて可能となったものである。

したがって、その法華経を信ぜず誹謗するということは、世間上の小さな善根や善行が成仏につながる縁となることを否定するのと同じであることを、譬喩品では「世間の仏種を断ずる」と説いたと釈したのである。もし、ここでの仏種を正因仏性とすると、法華経の十界互具・一念三千法門と矛盾することとなることはいうまでもない。


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