今日事務所でーー
私「プレミアム・フライデー、どげんする?今月は忙しいけど」
妹「いいんじゃないんですか。取れる人から取っていって」
私「ということで、皆、妹の許可を得たので。来月からは完全実施!」
妹「その分ちゃんと消費しないといけないんですよ」(笑)
ーー「給料以外の待遇は大企業並!」
給料を中々上げられないから「休み」でそうしているだけですけど。?
夜、心が洗われました!
田村九州総合長
2017.2.14pm7:30
久留米牧口講堂
対話ーーなぜ、語りかけるのか?
それは、「目の前の一人」を幸福にするために!
これが釈尊以来の仏教の根本精神であり、そして、末法の御本仏・日蓮大聖人に貫かれ、わが創価学会が受け継いでいる仏の根幹の願いです。
“自分から話しかける人”
恩師「広宣流布は一対一の膝詰めの対話からだ」
「実に<さあ来なさい><よく来たね>と語る人であり、親しみあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれと、自分のほうから先に話しかける人である」(中村元)
不軽礼拝の行は皆当作仏と教うる故に慈悲なり、既に杖木瓦石を以て打擲すれども而強毒之するは慈悲より起れり、仏心とは大慈悲心是なりと説かれたれば礼拝の住処は慈悲なり云云(御義口伝p.769)
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真言天台勝劣事 135ページ?
第八章大日の法身説法・無始無終説を破る
文永七年 四十九歳御作?
◎次に法身の説法と云う事何(いず)れの経の説ぞや
<通解>
次に法身の説法ということは、どの経に説かれているのか。
◎弘法大師の二教論には楞伽経(りょうがきょう)に依つて法身の説法を立て給へり、其の楞伽経と云うは釈迦の説にして 未顕真実の権教なり
<通解>
弘法大師の二教論では楞伽経によって法身の説法ということが立てられているが、その楞伽経というのは釈迦の説法であって未顕真実の権教である。
◎法華経の自受用身に及ばざれば法身の説法とはいへどもいみじくもなし
<通解>
それでは法華経の自受用身にも及ばないので法身の説法といっても、ありがたくもない。
◎此の上に法は定んで説かず 報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり、<通解>
そのうえ法身は決して説かず、報身は説くと説かないとの二義に通ずる他受用身と自受用身の二身があるのを全くしらないのである。
◎故に大日法身の説法と云うは定んで法華の他受用身(たじゅゆうしん)に当るなり、
<通解>
ゆえに大日法身の説法というのは、まさしく法華経の他受用身に当たるのである。
<解説>
第四問答の答えが続いているところである。
ここでは問者の四点にわたる難詰のうち、大日如来が?法身で無始無終の如来であると述べていることに対し破折を加えられているのである。
大日如来を法身とすることについては、前章でそれが他受用報身にすぎず、法華経の自受用報身や法身如来よりはるかに劣る仏身でしかないことが明らかにされるのであるが、ここでは、その法身が菩薩のために真言を説いたとする真言宗の“法身説法”の邪義を破折されているのである。
まず、報身の説法というのは、いったいどの経に説かれているのかと反問されている。
弘法自身は弁顕密二経論の中で、楞伽経を法身説法の根拠としているが、たといそうであったとしても、楞伽経は大日如来の説ではなく釈尊の説であり、しかも未顕真実の権教にすぎない。
したがって、法身の説法だからといっても、実教である法華経の自受用報身には及ばないから、勝れているなどということはいえないと、破られている。
更に、より根本的に、法身は法性、真理そのものの義に他ならないから説法するわけがないと指摘されるとともに、報身は自受用身と他受用身の二身があり、前者は法を説かないが、後者は法を説く、の二義があることを説明されて、真言宗はそのような深い仏身論をしらないのであると破られていく。
結局、真言のいう大日如来の説法というのは、法華経の立場からいえば、他受用身に当たるのである。と結論されている。