2月11月は、戸田先生の誕生日で、かつ、建国記念日。単なる偶然ではなく、やっぱり深い深い意味がありそうです。
『衆生を導く応身』
安倍「私は朝日に勝った」
トランプ「俺もだ」
(産経新聞)
ーー通快な一言でトランプ氏の警戒感を吹っ飛ばす!さすが安倍首相です。?
ニューヨークタイムズと朝日新聞は提携していたんですね。当の朝日は全く触れていませんね。「言論の自由」「知る権利」の詭弁で悪は結託する。日米の癌!
小説新人間革命「大山」はいよいよ「四月二十四日」ーー会長勇退の日に入りました。
昭和54年4月24年、私は22歳になる年の4月、創価大学の3年生になったばかりの時でした。永遠不滅の師弟原点の日です。
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真言天台勝劣事 135ページ?
第七章大日は釈尊の異名なる事を明かす
文永七年 四十九歳御作?
『インドと日本』
◎又毘盧遮那(びるしゃな)と云うは天竺の語(ことば)大日と云うは 此の土の語なり
<通解>
また毘盧遮那というのはインドの言葉で、大日と云うのは日本の言葉である。
『大日は釈迦の異名』
◎釈迦牟尼を毘盧遮那(びるしゃな)と名づくと云う時は 大日は釈迦の異名(いみょう)なり
<通解>
釈迦牟尼を毘盧遮那と名づけるときは、大日は釈迦の異名である。
『盧舎那と毘盧遮那』
◎加之(しかのみならず)旧訳(くやく)の経に盧舎那(るしゃな)と云うをば 新訳の経には毘盧遮那と云う
<通解>
それだけでなく、旧訳の経で盧舎那といっているのを新訳の経では毘盧遮那と言っている。
『毘盧遮那法身と盧舎那他受用身』
◎然(しか)る間・新訳の経の毘盧遮那法身と云うは旧訳の経の盧舎那他受用身なり、
<通解>
それえゆえに新訳の経で毘盧遮那法身というのは旧訳の経の盧舎那他受用身のことである。
『自受用報身』
◎故に大日法身と云うは法華経の自受用報身(じじゅゆうほうしん)にも及ばず
<通解>
ゆえに大日法身というのは法華経の自受用報身にも及ばない。
『法身如来]
◎況(いわん)や法華経の法身如来にはまして及ぶ可からず
<通解>
ましてや法華経の法身如来には及ぶはずがない。
『真言には知らざるなり』
◎法華経の自受用身と法身とは 真言には分絶えて知らざるなり
<通解>
法華経の自受用身と法身は、真言経には立場が隔絶しており、知ることのできないところである。
『天台宗からも排斥』
◎法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるるなり、
<通解>
法華文句記に「法報を分かたず、二・三弁うること莫し」と述べられているように天台宗からも排斥されているのである。
<解説>
☆法身・報身・応身の三身如来と自受用報身・他受用報身
『仏身の位』
本章と次章は仏身の位をめぐって論議が展開されているので、ここであらかじめ、よく使われる仏身に関する術語について簡単に解説を加えておきたい。
『報身が分かれて二身』
まず、法・報・応の三身と自受用・他受用の二身の関係であるが、三身のうち報身が分かれて二身となるのでる。
『真理そのもの』
法身は法身仏、法性身、自性身などともいい、真理や法理を身体としている仏のことで、真理そのもののことである。
『智慧を持つ仏身』
次いで、報身とは「報い」とあるように、仏になるための原因としての修行を積み、その報いとして悟りを成じ功徳を具えた仏身のことで、因行果徳身ともいう。また、法と冥合した智慧を持つ仏身でもある。
『自受用』
この仏身はまた自受用ともいい、報いとして悟りを成じた結果、悟った法を「受け用いる」、すなわち、自ら享受して楽しみ、また、他の人びとにも享受させ楽しませていく仏身のことである。
『自受用報身』と『他受用報身』
そのうち、自らが悟りの法を享受し楽しんでいる仏身が自受用報身で、他の衆生にも悟りの楽しみを分け与えようとして衆生救済へと出ていく仏身を他受用報身という。
『衆生を導く応身』
更に、応身は化身、応化身、変化身ともいい、衆生を導くために衆生の機根や状態に応じて現れる仏身である。
『勝応身と劣応身』
この応身は勝応身と劣応身とに分かれ、勝応身のほうは他受用報身と同じ仏身である。
『法身と報身は自受用身』
さて、これらの様々な仏身の位の高低についてであるが、真理そのものである法身が一番高く、報身の中の自受用身がこれに続く。
『衆生教化』
しかし、以上の二身は衆生教化という意義は含まれない。
『他受用報身』
三番目が他受用報身で、これは勝応身と同体であり、最後に劣応身が配されるが、これが他受用・勝応・劣応はいずれも衆生への説法教化のために現じた仏身である。
『自受用報身』
もとより、自受用報身といっても法華経本門の教主は法・報・応の三身相即の自受用報身であり、この仏身は因縁の作為によらない本よりの存在として、自ら法の楽しみを享受するとともに、その成仏の根源であり、自ら享受する妙法をそのままに説いて衆生を救済する仏である。
『久遠元初の自受用身』
しかし、法華経本門の教主は五百塵点劫という限界があり、劣応身から次第に昇進して自受用報身の立場を顕した仏であるから、これを応仏昇進の自受用報身といい、これに対して日蓮大聖人は法華経本門文底の教主として最初から成仏の根源の法である妙法を体現し、衆生にこれを説き弘められた。そのお立場を久遠元初の自受用身というのである。
『自受用報身〜応身』
以上のことを考慮すると、仏身の位は自受用報身→応仏昇進の自受用報身→爾前権教の法身→爾前権教の自受用報身→他受用報身→応身という順序になる。