中村筑後総県長(創大12期)から、
「創友会絡みでちょっとお願いがあり、夕方お時間取れないでしょうか」
と突然電話ーー
何かと思ったら、
『創価大学野球部・岸監督の出版記念会』が3月に福岡で開催!
「そのパンフレットに社名入りの広告を2口お願いします!」
「そんなこと電話で良かったのに」
「いえいえご無理なお願いなものですから」
妻「そういうことで声をかけて貰ってありがたいじゃない!」
ヘンリー・キッシンジャー
「一つの中国の原則は米中間の基礎、不変のもの」
中国はワラにもすがる気持ちだろう。
(夕刊フジ)
今日の新人間革命・大山32
先生とキッシンジャーとの対談
大きな意味があるようです!
一昨年、夫婦で中国を旅行した時に、中国人男性ガイドが言っていたことが印象的です。
「中国にもし二つでも政党があったら必ず戦争になります。日本は1億人でも政党が10位あってまとまらないでしょう。中国13億人をまとめていくには『一つの中国』しかないんです。日本人からするとなかなか理解できないでしょうけどね」
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真言天台勝劣事 135ページ?
第五章弘法と覚鑁の謬見を破折する
文永七年 四十九歳御作?
◎次に覚鑁の法華は真言の履取に及ばずと舎利講の式に書かれたるは舌に任せたる言なり
<通解>
次に覚鑁が法華経は真言経の履物取りにも及ばないと舎利講の式に書いているのは、舌に任せた勝手な言い分であり、証拠がないのであるから、ひとえに謗法となるであろう。
<解説>
覚鑁の法華は真言の履取に及ばずと舎利講の式に書かれたるは舌に任せたる言なり
覚鑁の言葉は舎利供養式という書の中につぎのように記されている。すなわち「第一に法身に帰命して菩提を発すとは、崇高なる不二摩訶衍(まかえん)の仏、露牛の三身の車を扶くることにあたわず。秘奥なるは両部漫荼羅の教、顕乗の四法は履を採るに堪えず」とある。
※摩訶衍(まかえん)
は、8世紀の唐の仏教僧の名で、招聘されて禅を吐蕃(チベット)に伝えた。
786年(貞元2年)、敦煌陥落の頃、ティソン・デツェン王は吐蕃に、この禅僧の摩訶衍(マハヤーナ)を呼んで布教させた。
覚鑁はここで帰命すべき人と法について顕教と真言密教とを対比した形で法華経等を誹謗している。
仏に関しては「崇高なるは不二摩訶衍の仏」すなわち法身の大日如来であるとし、これに対し、爾前の教主である釈尊を「露牛の三身」として、衆生を彼岸へ渡す車は引っぱられないと貶めている。
また、法に関しては、真言密教の両部漫荼羅の教こそ秘奥であり、それに比べると、顕乗の四法はその履物取りにも堪えないとしている。顕乗とは顕教のことで、四法は法相・三論・華厳・法華の法をさしている。
『撰時抄』
そのことを大聖人はこの文を撰時抄に引用されて、次のように釈されているところからも明らかである。
『履物取者にもたらぬ程の事』
すなわち「顕乗の四法は履を採るに堪へず」と云云、顕乗の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼・履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候」(0278−12)と。
『何の根拠もない舌に任せた言葉』
いずれにしても、覚鑁の主張は、何ら経文や道理を裏づけとせず主観的に法華経をけなしているだけなので、大聖人は何の根拠もない舌に任せた言葉にすぎない、と一蹴されている。