1月7日はうちの奥さんの誕生日でした。
私は花籠を、娘はケーキを買ってきて、ささやかにHappy Birthday to You!! 、大阪にいる息子の嫁さんからもバックが届き、息子からは“おめでとうコール”。
今年と来年で夫婦共に還暦となります。
今朝から圈十時間唱題会で私は一時間、奥さんはなんと十時間挙げました!
妻「誕生日に十時間題目もいいんじゃない!」。
普段は私の方が“コンスタントに一人で”挙げますが、奥さんは“いざというとき皆で”挙げます!?
朝、月に一度の自主的な血液検査を受けたあと、事務所で年賀状から北九州交流の回る順序づけと準備。明日奥さんと6件、明後日一人で5件、北九州を回ってきます!
玄奘三蔵の顔と姿、我ながら何となく自分に似ているような……?
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『西遊記』の基ともなった玄奘三蔵!
真言七重劣事 p.129
「第二章中国・日本の人師の判教挙げる」
文永七年 四十九歳御作 与富木常忍
般若経第一 ─吉蔵の義 梁(りょう)代の
人なり。
法華経第一 ┐ 南岳の御弟子なり。
涅槃経第二 ┼天台智者大師の御義
華厳経第三 ┘ 陳隋二代の人なり。
妙楽之を用う。
深密経第一 ┐
法華経第二 ┼玄弉の義 唐の始め太宗の
般若経第三 ┘ 御宇の人なり。
<通解>
般若経第一 ─吉蔵の義、中国梁代の人
である。
南岳大師の御弟子
である。
法華経第一 ┐
涅槃経第二 ┼天台智者大師の御義。
華厳経第三 ┘陳・隋二代の人である。
妙楽大師がこれを用いる。
深密経第一 ┐
法華経第二 ┼玄弉の義、中国唐代初期の
般若経第三 ┘ 太宗の御代の人である。
<解説>
『吉蔵の義…般若経第一』
次に三論宗の吉蔵の般若経第一を挙げられている。吉蔵は中論、十二門論、百論の三論を学び三論宗を大成させたが、法華経を学びながら法華遊意のなかで「若し菩薩のために実慧・方便を明かすときは、則ち般若は勝れ、法華は劣る…波若は広く実相を明かす。故に衆経中に於いて最も深大と為す」とのべるなど、般若を第一とし、法華を貶めた。このことで指摘されているのである。
『自らの過ちを悔い』
吉蔵は天台大師と接することにより、自らの過ちを悔い、天台大師に心服した。なお、吉蔵の義の項で「梁代の人なり」とあるのは、光宅寺法雲についての記述であろうと思われる。
『天台大師の義』
第三に挙げられているのは、天台大師の説である。天台大師の説は、南北の義についてのべたなかに含まれているので、ここでは略す。
「妙楽等之を用う」と仰せられているのは、妙楽大師等もこの天台大師の判教を用いて経典の義を釈したことを言われている。
『玄奘(げんじょう)の義』
次に挙げられているのは、法相宗の玄奘三蔵の義である。玄奘は中国法相宗の開祖である。インドへ法を求めた時、唯識を学び、将来した解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などに依って法相宗を開いた。
『一乗方便三乗真実』
玄奘は「機」を重んずるべきであると主張し、法華一乗は三乗不定性の機根の人に対する方便の教えであり、三乗が真実であるという「一乗方便三乗真実」を説き、法華経をおとしめて、深密経が法華経に勝るとしたのである。撰時抄には、次のように述べられている。
『深密には劣る』
「玄奘三蔵といゐし人・貞観三年に始めて月氏に入りて同十九年にかへりしが月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす、此の宗は天台宗と水火なり而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして法華経は一切経には勝れたれども深密には劣るという」(0301−01)
※玄奘
(げんじょう、602年 - 664年3月7日)
唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。