※法華経に勝れたる経之れ有る可からず
法華真言勝劣事
『慈覚・智証が祖師の義に背くを明かす』
125-126ページ
『末学の身として』
◎難じて云く末学の身として祖師の言に背かば之を難ぜざらんや、
<通解>
難詰していう。後世の弟子の身で祖師の言っていることに背くならば、これを非難しないでいられようか。
『何ぞ智証慈覚の』
◎答う末学の祖師に違する之を難ぜば何ぞ智証慈覚の天台・妙楽に違するを何ぞ之を難ぜざるや、問うて云く相違如何、
<通解>
答えていう。後世の弟子が祖師の違背を非難するならば、智証や慈覚こそ天台妙楽に違背していることを非難しないのか、問うて言う、違背しているのではないか。
『已今当の三説』
◎答えて云く天台妙楽の意は已今当の三説の中に法華経に勝れたる経之れ有る可からず、若し法華経に勝れたる経之有りといわば一宗の宗義之を壊る可きの由之を存す、
<通解>
答えていう。天台大師や妙楽大師の意は、已今当の三説の中に法華経より勝れた経はありえず、もし法華経より勝れた経があるというならば一宗の宗義を破ることになる、と考えられていたのである。
『破る可き』
◎若し大日経・法華経に勝るといわば天台妙楽の宗義忽(たちまち)に破る可きをや。
<通解>
もし大日経が法華経に勝るというならば天台大師や妙楽大師の宗義をまさに破ることになるではないか。
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<解説>
(前文)涅槃経には「法に依って人に依らざれ」とある。仏法の勝劣・浅深・判釈については、仏の説いた経文を根拠とすべきであって人師・論師の言葉を用いてはならない、という仏の誡めである。
これに対し、更に師弟の義を楯に、末学の身は祖師の言葉を用いるべきであると非難してきたのに答えられて、もし祖師の言に背くことを非難するなら、慈覚・智証こそ、その祖師である天台大師・妙楽大師の教えに違背していることを非難すべきではないか、と責められている。
慈覚・智証は祖師である天台大師・妙楽大師の教えに背き、理同事勝の邪義によって、天台法華宗を天台真言に堕落させたのであり、ここにこそ、慈覚・智証の根本的な誤りがあったのであるが、それを指摘する者はいなかったのである。
では、慈覚・智証はどの点で天台等の祖師に違背しているのかとの質問に対し、天台大師・妙楽大師の意は已・今・当の三説の中で法華経に勝る経はない。もしあるという者は天台宗の宗義を破るものである、ということであるとされている。
※法華経に勝れたる経之れ有る可からず
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