※「爾前経で永不成仏とされてきた二乗への成仏は信じがたいことであった」
ーー今は納得。自分も二乗ですから!?
法華真言勝劣事
『大日如来を無始無終とする義を破す』
文永元年43歳御作
125ページ
『難信難解等の文を見ず』
◎大日経六巻並に供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部の経の中に未だ三止四請(さんしししょう)・三誡四請・二乗の劫国名号・難信難解等の文を見ず。
<通解>
大日経の六巻ならびに供養法の巻と、金剛頂経と蘇悉地経等のもろもろの真言部の経の中に、いまだ三止四請や三誡四請や二乗が未来に成仏するときの劫・国・名号や難信難解を説かれた文を見たことがない。
『五乗の真言』
◎問うて云く五乗の真言如何、
<通解>
問うていう。大日経等に説かれる天・声聞・縁覚・菩薩・仏の五乗の真言についてはどうか。
『二乗の真言』
◎答う未だ二乗の真言を知らず四諦・十二因縁の梵語のみ有るなり、又法身平等に会すること有らんや。
<通解>
答えていう。末だ成仏の真実を知らない。四諦や十二因縁を説いた梵語があるだけである。また法身平等の理に会入することはない。
※三止四請(さんしししょう) :
方便品では、舎利弗が三度教えを請(こ)うて、やっと釈尊が説き始める場面があります。(三止四請)
その後、釈尊が説こうとした時には、五千人の人々が「未だ得ざるを得たりと謂(おも)う」という増上慢によって座を立ってしまいました。(五千の上慢)
しかし、釈尊は、彼らを呼び止めようとはしません。
また法華経譬喩品(ひゆぼん)には、「仏道を求むる者有らば是(かく)の如きの人に乃(すなわ)ち為(た)めに説く可(べ)し」とあります。
要するに法を究めるには、求道心が絶対に必要だという教訓でありましょう。
今、自身の心に求道心があるのかどうかが大事です。「疑問のための疑問」ではなく、「信心を深めるための疑問」を心掛けたいものです。
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<解説>
それに対して、真言宗の依経である大日経六巻とその供養法一巻、金剛頂経三巻、蘇悉地経三巻等には、三止四請の儀式の後に未来の劫国名号を示して二乗の成仏を明かした法華経迹門の二乗作仏や三誡四請の儀式を経て五百塵点劫成道を明かした本門の久遠実成は全くない、としてきされている。
難信難解とは、次の章にも挙げられるように、法華経法師品第10に「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」と説かれているのがそれである。
二乗の劫国名号は二乗作仏の抽象的な約束でないことをあらわしているが、爾前経で永不成仏とされてきた二乗への成仏は信じがたいことであった。
方等涌現や地涌涌出などは、寿量品の説法の重大さを示す遠序であり、弥勒の疑い、三誡四請などは、それを承けて行われる寿量品説法の深さが弥勒ほどの菩薩の思議すら超えるものであることをあらわしている。したがって、衆生にとって、法華経の説いた法門は難信難解なのである。
更に、大日経に説かれる仏・菩薩・縁覚・声聞・天の五乗の真言についての質問に対し、「末だ二乗の真言を知らず四諦・十二因縁の梵語のみ有るなり」とされているのは、二乗が成仏するという真実の言葉を知らない、という意であろうか。つまり、二乗にとっては、小乗の悟りをもたらす四諦や十二因縁という教えが梵語にすぎない、とされたものであろう。
「又法身平等に会すること有らんや」とは、五乗の真言を、法身平等の義であるなどと解釈することはできない、と指摘されたものであろう。
※「爾前経で永不成仏とされてきた二乗への成仏は信じがたいことであった」
ーー今は納得。自分が二乗ですから!?
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選挙(法戦)となると私は全く知らない同業の税理士を回ります。大体10人に1人は味方になり、不思議とずっと繋がっていきます。それが一番嬉しいのです。まさに仏縁!
「汝(なんじ) 須く(すべからず)一身の安堵(いっしんのあんど)を思わば 先ず(まず)四表の静謐(しひょうのせいひつ)を祷らん(いのらん)者か」
(あなたが自分自身の安泰を願うのなら、まず世の中の平穏(四表=自分の前後左右の方角や周囲、静謐=平穏、平和)を祈ることが必要ではないか。)
今日は、八幡西区2件、若松区2件、小倉南区2件、合計6件を約3時間かけて回って来ました。一人も会えませんでしたが、ポステイングだけしてきました。年明けて毎週日曜日は北九州へ!そのあとは大分へ!