法華真言勝劣事
二条作仏と久成は法華経のみを示す
文永元年43歳御作
124-125ページ
『実には之無きか』
◎之を以て之を思うに義釈(ぎしゃく)には大日経に於て二乗作仏(にじょうさぶつ)・久遠実成(くおんじつじょう)を存すと雖も実には之無きか如何、
<通解>
このことから考えてみると、義釈には大日経に二乗作仏・久遠実成が説かれているといっても実義はないのではないか。どうか、
『実義之無きか』
◎答えて云く華厳経の如く相似の文之有りと雖も実義(じつぎ)之無きか、
<通解>
答えていう。華厳経の場合と同様に似た文はあるけれども、実義はない。
『四弘誓願満ぜず』
◎私に云く二乗作仏無くば四弘誓願(しぐせいがん)満足す可からず、四弘誓願満ぜずんば又別願も満ず可からず、
<通解>
自分の考えでは「二乗作仏がなければ四弘誓願を満たすことはできず、四弘誓願を満たさなければ別願も満たすことはできない。
『成仏も有り難きか』
◎総別の二願満ぜずんば衆生の成仏も有り難きか能く能く意得可し云云。
<通解>
総別の二願を満たせないならば、衆生の成仏もありえないのではないか、よくよく心得るべきである。
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<解説>
『心は工なる画師の…如く』
華厳宗では、華厳経に「心は工(たくみ)なる画師の種種の五陰を画くが如く、一切世界の中に法として造ざること無し」の文があり、天台大師もそれを一念三千を説明する上で用いるため、華厳経にも一念三千の法理が説かれている証拠であるとしていた。
『三重秘伝抄』
この点について日寛上人は三重秘伝抄で取り上げられ「彼の経に記小久成を明かさず、何ぞ一念三千を明かさんや」と華厳経の主張を破折し、天台大師が華厳経の文を引いた理由についても「若し大師引用の意は、浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云。
『死の法門』『活の法門』
又古徳云く『華厳は死の法門にして法華は活の法門なり』云云。彼の経の当分は有名無実なる故に死の法門と云う。…若し会入の後は猶蘇生の如し、故に活の法門と云なり」と述べている。
『相似の文があったとしても』
この華厳宗の例と同じく、天台真言が大日経義釈で大日経に二乗作仏と久遠実成を明かしているとしているのも、相似の文があったとしても実義はない、とされている。
『四弘誓願』
事実、真言の経典がどこにも二乗成仏はなく、二乗が成仏できないなら、菩薩が立てた四弘誓願が満足しないではないか、と指摘されている。
『衆生無辺誓願度』
四弘誓願の第一である衆生無辺誓願度は、一切衆生すべて悟りの彼岸に渡すとの誓いであり、二乗が成仏しないなら、この誓いが果たされないことになるからである。
『総願』と『別願』
四弘誓願はすべての菩薩が起こす誓願なので総願といい、菩薩が個別に起こす誓願を別願という。
別願(べつがん):
仏教用語。総願 (→四弘誓願 ) の反対語。仏それぞれが個性をもって立てた独自の誓願をいう。たとえば阿弥陀仏の 48の誓願,薬師如来の 12の誓願など。
『衆生の成仏は叶わない』
二乗作仏が明かされない大日経では、総願も果たせなければ、別願も満足しないので、衆生の成仏は叶わないことになるではないか、と破されている。
※四弘誓願(しぐせいがん)とは
四大菩薩の根本的な願い
1.安立行菩薩の誓願ー衆生無辺誓願度
(しゅじょうむへんせいがんど)
衆生の数は無辺でも、必ず一切の衆生を救う誓願。
2.浄行菩薩の誓願ー煩悩無数誓願断
(ぼんのうむしゅせいがんだん)
煩悩の数は無数でも、必ず、全ての煩悩を断ち切る誓願。
3.無辺行菩薩の誓願ー法門無尽誓願学
(ほうもんむじんせいがんが)
仏の教えは無尽であろうとも、必ず、学び尽くす誓願。
4. 上行菩薩の誓願ー仏道無上誓願成
(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上であっても、必ず、到達する誓願。
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今年最後の地区座談会は、参加者全員の一言発言で最高に盛り上がりました。?