天照太神・八幡大菩薩も本地は教主釈尊
『 天の一月・万水に浮べる影』
法華真言勝劣事
『二乗作仏・久遠実成こそ根本と示す』
文永元年43歳御作
123ページ
『永不成仏』
◎一代の聖教に皆二乗を永不成仏と簡(きら)い随つて大日経にも之を隔(へだ)つ、
<通解>
一代の聖教はみな二乗を永久に成仏しない者として選び捨てており、したがって大日経も二乗を分け隔てている。
『百分が六十余分得道せずんば』
◎皆成仏までこそ無からめ三分が二之を捨て百分が六十余分得道せずんば仏の大悲何かせん、
<通解>
全部は成仏することまではなくとも三分の二を捨て去り、百分の六十が得道しないならば、仏の大慈悲はどういうことになってしまうのであろうか。
『理の三千之有つて成仏す』
◎凡(およ)そ理の三千之有つて成仏すと云う上には何の不足か有る可き
<通解>
だいたい、理である一念三千があって成仏すると説かれた以上は、何の不足があろうか。
『瘂なる仏・中風の覚者』
◎成仏に於ては瘂(あ)なる仏・中風の覚者は之有る可からず、
<通解>
口のきけない仏や中風の覚者はいるはずがない。
『印真言は規模無きか』
◎之を以て案ずるに印真言は規模(きぼ)無きか、
<通解>
このことから考えてみると、印・真言は効果がないであろう。
『三身相即の無始の古仏』
◎又諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕(あらわ)さず、
<通解>
また諸仏は始成正覚を説いて、三身相即の無始の古仏を説き顕していない。
『本無今有の失』
◎本無今有の失有れば大日如来は有名無実なり、
<通解>
本無今有の欠点があるので、大日如来は有名無実である。
『 天の一月・万水に浮べる影』
◎寿量品に此の旨を顕す釈尊は天の一月・諸仏菩薩は万水に浮べる影なりと見えたり、委細の旨は且く之を置く。
<通解>
法華経寿量品にこのことを説き顕している。釈尊は天の一月で、諸仏・菩薩は万水に浮かんだ月の影のようなものであると説かれている。
詳しい内容は、しばらく置いておく。
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<解説>
また権大乗の諸経においては、釈尊の弟子である二乗を「永不成仏」として捨てている。
これは仏弟子である三乗のうち二乗、60/100が得道できないということであり、仏の大慈悲といっても限界があることになってしまうのである。
法華経によって理の一念三千が明かされ、一切衆生が成仏できるとされたからは、何の不足もないはずであり、印・真言の有無などは問題ではなくなる。
なぜなら印・真言は悟りを得た仏に自ずと具わるもので、手の不自由な仏や、口のきけない仏などあるはずがないからである。
また、諸経では、釈尊が19歳で出家し、30歳で正覚を成じて仏になったと説き、法身・報身・応身の三身を一身に具えた久遠の仏であることについては、何も明かしていない。
久遠の本地が明かさなければ、垂迹である大日如来は本無今有であり、有名無実な存在なのである。
天台大師は、久遠の本地が無いのに垂迹が有るとする考え方を、天月と地月に譬えて、「天月を識らず但地月を観ず」と述べられている。
法華経の如来寿量品第16で初めて五百塵点劫の成道が説かれ、久遠の本地が明らかになって、釈尊を天の月とすれば、諸仏・菩薩は多くの水に映る月の影であることが明瞭になったのである。
この点については日眼女造立釈迦仏供養事に、「東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる・天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり」(1187−02)と述べられている。
法華経は大日如来の本地である久遠の釈尊が明かされたゆえに、大日経に勝るのは当然であり、それを誹謗することは、大日如来を誹謗していることになるのである。
※天照太神・八幡大菩薩も本地は教主釈尊
『 天の一月・万水に浮べる影』
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今日の夫婦の会話ーー
私「明日『海賊とよばれた男』を観て来る」
妻「あーそれは私も行くことにしていた」
私「そうね!!久しぶりに趣味の合うたね♪」
妻「趣味の全く違うのが、よー31年も続いてるよ!?…でも今日は合うたね♪」
ーーということで、
夫婦久しぶりに趣味が合い、
明日『海賊とよばれた男』を
一緒に鑑賞して来ます。?