妙法蓮華経は能開なり
題目弥陀名号勝劣事115ページ
『玄宗皇帝』
仏法漢土に渡り初めし事は後漢の永平なり渡りとどまる事は唐の玄宗皇帝・開元十八年なり、
『一巻一品も』
渡れるところの経律論・五千四十八巻・訳者一百七十六人其の経経の中に南無阿弥陀仏は即南無妙法蓮華経なりと申す経は一巻一品もおはしまさざる事なり、
『四十二年が間』
其の上阿弥陀仏の名を仏説き出し給う事は始め華厳より終り般若経に至るまで四十二年が間に所所に説かれたり、
『一代聴聞の者』
但し阿含経をば除く一代聴聞の者・是を知れり、
『過去の日月燈明仏の例を引いて』
妙法蓮華経と申す事は仏の御年七十二・成道より已来四十二年と申せしに霊山にましまして無量義処三昧に入り給いし時・文殊・弥勒の問答に過去の日月燈明仏の例を引いて我燈明仏を見る乃至法華経を説かんと欲すと先例を引きたりし時こそ南閻浮提の衆生は法華経の御名をば聞き初めたりしか、
『十六の王子』
三の巻の心ならば阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時・十六の王子として法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、
『弥陀仏等も』
弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず、
『能開と所開』
妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、
『物知りがほに』
能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり、
『習いそこなひの』
日蓮幼少の時・習いそこなひの天台宗・真言宗に教へられて此の義を存じて数十年の間ありしなり、
『人師の釈』
是れ存外の僻案(びゃくあん)なり但し人師の釈の中に一体と見えたる釈どもあまた侍る、
『今の人弁へずして』
彼は観心の釈か或は仏の所証の法門につけて述たるを今の人弁へずして全体一なりと思いて人を僻人に思うなり、
御景迹(ごけいせき)あるべきなり、
※景迹(ごけいせき) :推し量ること。推察。
「余事は御―あるべく候」
『一つならば』
念仏と法華経と一つならば仏の念仏説かせ給いし観経等こそ如来出世の本懐にては侍(はべ)らめ、
『法華経を出世の本懐と』
彼をば本懐ともをぼしめさずして法華経を出世の本懐と説かせ給うは念仏と一体ならざる事明白なり、
『僻案』
其の上多くの真言宗・天台宗の人人に値い奉りて候し時・此の事を申しければされば僻案(びゃくあん)にて侍りけりと申す人是れ多し、
『謗法となる根本』
敢て証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず是こそ謗法となる根本にて侍れ、あなかしこ・あなかしこ。
日 蓮 花押
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北方領土、「一部でも」60%、「四島すべて」は29%! 私は少数派みたいです。?
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