◎落日の影
「ああ、鳩どもがねぐらに帰る……もう雁の渡って来るのに間もあるまい」
「ーーあの、人でなし、まだ自害もせなんだかや」
「大義であった。この瀬名は家康の正室ゆえ座は改まるに及びませぬ」
(素直に聞く相手ではない……)
「わらわは家康どのの正室。子を苦しめて喜ぶが良人の楽しみならそれに従うて、ともによろこぶが婦道であろう。のう平左衛門」
御前は淡々とうなずいた。
「徳川左近衛権少将家康どのは腰ぬけにて、信康ずれの機嫌をとるため、わが妻子を殺したお人と、後々まで笑いを残す……おお、命令あらば立派に自害してのけようぞ」
今川義元の姪として嫁いで来た御前。
愛情に餓え、わがいのちを扱いかねて、いよいよ夫婦の間の溝を深めた哀れな女。
(いったいこれは誰の罪なのであろうか)
と、太郎左の口調はまだ険しかった。
「おそらくこれは前代未聞の悪妻であろうて。それが選りに選って大殿の御前とは。どうせ、あとで人に刺させるほどなら、さっきおれを止めねばよかったのだ」
「恐れながら、この重政、御前のご介錯をいたしとう存じまする」
「なに介錯を……こなたたちは、ここでわらわを斬るつもりか」
「ご生害ねがわしゅう、このとおりでござりまする」
「いいえ、重政一人のお願いでござりまする。恐れながら若殿のために」
「何とぞ、お家のために、ご生害のほど……このとおりにござりまする」
これは家康の命でもなければ三人で相談したうえのことでもない。
(これが正しいのだ……)
「いやじゃ……」
(死ぬものか!)
そして次の瞬間、あたりへはザザッと血の虹が立ったと思うと、
「うぬッ、主殺しを……」
「ご介錯申し上げまする」
「うぬッ、よくもわらわを……祟ってやろうぞ」
……凄惨というよりも、むしろ何か底抜けに悲しく憐れな人間の最期に見えた。
「徳川の家の……あらん限りは……怨んで、怨んで、怨みぬこうぞ」
「死ぬものか、死にはせぬ。魂魄はこの世にとどまって」
「ご面」
と、重政の声がひびき、そのまま御前の体は重政の両腕の中へ倒れこんだ。
「よくやった。ここで討たねば、きっと大殿に斬りつけかねないお方なのだ」
「御前は北富塚の向かいの谷まで来られたところで、若殿のご助命を願い、ご生害なされてござりまする」
「なに自害したと?」
「そうか。女性(にょしょう)のことなれば、計らい方もあったものを……心幼く……生害させたか」
生害させたかと言われたとき、重政はいきなりハッと平伏した。
彼らの斬って来たことを敏感に感じとっている……そう思うと、全身がすくんでいって、家康の顔の見られぬ重政だった。