◎鞭の足音
(ーーあやめ、うぬはなぜ死んだのだ)
和合というのは不思議なものであった。信康が徳姫と睦もうと心掛けるようになってみると、徳姫の方もまた、あっけないほど簡単にこだわりを捨てて来た。
「ーー殿、お許しなされて……わらわは殿を憎んだことがござりました」
「殿! お愕きなされまするな」
「安土へ移られた右府さまから、若殿を切腹させよと、浜松の大殿のもとへお指図があったと申されまする」
「なに……」
(何が勘気にふれたのか……)
徳姫は首をかしげて遠くを見る眼つきになった。
「ずっと以前には、あれこれわらわから愚痴も書き送りましたが、それに返事らしい返事もなし、それゆえ、ここ二年近く、あまり便りもいたしませぬ」
「なに、これから内通のおそれがあると、たわけたことを」
「と、仰せられても、御前はいまだに織田を仇敵と、若御台さまの前で呼ばれまする。それに密書には、織田、徳川の両家を滅ぼしたうえは勝頼より殿に、織田家の所領のうち一国を贈ると書いてござったようにうかがいました。それゆえ同腹と言い立てる所存ではござりますまいか」
「七之助」
……
「わしはの、おぬしの切腹は許さぬことにしたぞ」
「えっ!? それは、なぜでござりまする」
「わしは武将じゃ。わしのために斬られた者、生命をおとした者が無数にある。分るかの七之助……そのわしが、わが子の命の助けたさに、六歳の人質のおりから、熱田、駿府と、ずっと苦楽を共にして来たその方を、切腹させたとあっては、明日から神仏に手を合わされぬ。のう許してくれ。こなたの心根に、両手を合わせて泣いているこの家康……無理はもう言わずにおけ」
「いいや分らぬ! わらわはそれが怨めしい! 六歳の折からおそばにあり、大切なご嫡男の養育を任された,……それで、この親吉の心は隅々まで大殿に通じたものと思うて、喜んでいたのが怨めしい。大殿! ……万が一、三郎さまご切腹なされた後、この親吉が、おめおめ生きていると思われまするか!」
「七之助! 黙らぬかッ」
「しかし、もう許さんぞ。おぬしは甘えている。世間のきびしさ、残酷さをよく知っていながら、この家康に甘えているのじゃ。七之助、わしにはの、その甘える相手もない……重ねて言うなよ」
(おれはほんとうに大殿に甘えていたのだろうか)
(死よりも辛い生があったを忘れていた……)
「それゆえ、わしみずから岡崎へ立ち越えて処分する。と、言って、三郎は右府さまの婿、何のお届けもせなんだら、あとでおとがめがあるやも知れぬ。……」
作左は……
(何という強靭さであろうか、この殿は……)
どこまでも信長の命令で動いたのではない。わしはわしの一存で……そう言いたい家康の肚であろうと、まともに顔は仰げなかった。
自分たちの失言を全身で恥じている。といって、その底にはやはり、嘘を言ったのではないという一種の誇りの見てとれるのが家康にはたまらなかった。
「日本のために、生かしておけぬと言われる右府の心を汲んで、わが子の城へ攻め入るのじゃ」
「わしも言いたくない、言いたくないが、それが事実なのだ……作左、油断はすまいぞ。二人でな、初陣の日のように用心深く、気を引き締めて、必ず遅れを取るまいぞ」