◎落雷
この城も、本多作佐衛門に命じて、以前よりはぐっと大きく城郭をひろげていたが、その質素さは安土の結構などとは比ぶべくもなかった。
信長の推挙で、家康もすでに官位は従四位下左近衛権少将に任ぜられ、領土もじょじょに多くなっている。したがって、生活もそれに従い、いくぶん華美さを加えてもよいはずだったが、家康は逆にぐっと締めていた。
「これでものう、百姓どもよりぐっと贅沢じゃ。百姓どもが何をすすっているか、見てくるがよい」
偉い大将と褒めるものと、生来のりんしょくが顔を出したのではあるまいかと危ぶむものと……
お愛に分かっているのは、家康が日増しに虚名をきらって、きびしくおのれの内部の充実を志してゆくことだけだった。
それは信長が破竹の勢いで伸びれば伸びるほど、家康を深く、きびしく沈潜させて行く陰陽両極のひらきのように見えた。
「殿! 信長めが、ついの芽をむき出しましたぞ。もともとあ奴は狡猾無類な猛獣なのだが」
「なかなかもって、そのようなことではござりませぬ。お愕きなされまするな。岡崎の三郎さまを……」
「岡崎の若殿と築山御前、いずれも腹切らせとの難題でござりまする」
「第一は、近ごろ岡崎近辺へ流行りだしている踊りのことでござりました。……」
「……それゆえこの踊りを亡国の踊りといいますそうな。これ三郎さまに、領民へ望みを与えるだけのご器量のない証拠と」
「第二は、……三郎さまも……粗服をまとえる者に腹を立て、弓を取って射殺した。……」
「第三は、お鷹野の帰りに僧侶の首に縄をかけ、馬にて曳きずり殺したことにござりました」
「第四は、……」
(自分の知らないことを、みな信長が筒抜けに知っている……)
信康が、どれだけ家臣に人望がないかと言う証拠でなくて何であろう。
(ふびんな奴め……)
「第五は……」
「若御台徳姫さまに、……妾をおき、事ごとに……折檻なされたこと……」
「若御台つきの腰元小侍従が、三郎さまに諫言したことをお怒りになされ、斬り捨てたうえにて両手をもって口を引き裂きましたること」
「築山御前についてでござりまする。その一ヵ条は、勝頼に密書をもって内応し、織田、徳川の両家を滅亡なさんと計りしこと」
「もうよい!」
「……万一のことがあっては、徳川どのの九仭(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠くゆえ、わしに遠慮せずに切腹させよ……そう仰せられました」
「なに、わしに遠慮せずと……と、言われたか」
「はいッ」
「しかし、人生はおかしなものよのう」
「と、仰せられますと」
「今まで考えてもみなんだことを、今日ちらりと考えた。信康からこんどの赤子まで四人並べてみなと共に能でもみようか……ふとそう思うたら、もう一人魔がさしている」
「……おそらく信長どのも心の中では泣いてござろう。……」
信長の心は底の底まで見ぬいている気でいながら、今まで“まさか”と思うていたのが油断であった。
大賀弥四郎の場合でもそうであったが、こんどの場合も家康が初めて耳にすることが幾つかあった。
(これでは、われらが大きゅうなると困ろうて……)
考えて来て、家康はハッと自分を反省した。愛児を見舞ったこの不運のために、狼狽して、家臣を怨みそうな自分に気づいたのだ。
「三郎め、なんでそちは、もう少し用心深く生きなかったのじゃ」
短い人生と永遠の対決。自然の偉大さと人間の小ささ。
(そうだ……)
(三郎のために、わしは意地を捨てて信長どのに詫びてみよう。それが素直な親の心じゃ)
「かようなことになるとは知らずに、わしは信長どのに差し上げようと思うて、馬一頭を用意してあった。……これを曳いて両人でおもむき三郎がために弁疏(べんそ)してやってはくれまいか」
「急いでゆけ。曳いて行く馬は九八郎に命じて用意させてある。そちとて子供は持っていこう。……」
「徳姫さまづきの腰元で、おふうという三十女がござりました。……これを三郎さまが後に知って、忠次を呼びよせ、若御台の前で、ひどく罵りましたそうな」
家康は舌打ちした。それもまた家康の耳には入っていない。
(たしかに作佐の言うとおり、これは無駄な使いであったかも知れぬ……)
(これでよいのだ。これが親の迷いなのだ)