
◎決戦前夜
 家康「知れたことだ。兵の強弱は大将次第。信玄の兵が強かったとて、勝頼の兵も強いと思うな、まず踊れ、忠次」
 
 「こりゃおかしい! どうだあの生まじめなお顔は」
 「これで勝ったわ。それつまめつまめ」
 「たまらぬ。あの腰のふりようはどうだ」
 家康はみんなの笑顔と忠次の奇態な手ぶりを半々に見やりながら、自分で自分の心をのぞいている気持であった。
 (みんなの笑い声の中にも、忠次の躍りの中にも、つねとは違うものがある……)
 人間は心にしこりのあるときは、笑っても踊ってもそれがひどい誇張になってゆくものだった。
 (これは心しなければならぬことじゃ)
 
 「よい月らしい眺めてこようか」
 
 「九八郎……」と家康は口の中でつぶやいた。
 「信長どのはきっと来られる。もうしばらく持ちこらえよ。よいか、もうしばらくじゃ」
 
 次の時代でもよい。またその次の時代でもよい。必ずそれを招き寄せるための礎石を、根気よく、一つ一つ置いて行かねばならない。
 (そうした計画がいまの自分にあるであろうか……)
 
 松高く(松平・徳川の意)
 たけたぐひなき(武田首なき)
 朝(あした)かな 信長
 
 小田(織田)はさかりになびく秋風 信長
 
 「ーー慈悲忍辱を口にしながら、火銃をもてあそび、刃物三昧にあけ暮れする。こんどこそは絶対に許さぬ。凝らしめのため、みな殺しじゃ」
 
 (いままでは徳川対武田の戦であったが、これからは織田対武田の戦になる……)
 勝ったあとで、信長に、徳川家の内部のことにまで口出しされぬよう、慎重な用意をもって信長に対さなければならなかった。
 
 (お館さま、長篠からの密使でござりまする)
 
 (援軍を求めて来たか、それとも城将の討ち死にか……)
 
 「瓢(ふくべ)曲輪奪われて城の食糧あと三日分にござりまする」 
 
 「大野川の川底を歩いて来ました」
 
 「城内ではおそらく後日にそなえて、粥というも名ばかりのものを啜(すす)りだしておることと……それゆえ強右衛門も、このまま引き返し何とぞして城中へ立ち戻って、苦楽を共にいたしとう存じまする」
 「そうか。なるほどのう……」
 そう言うと家康の眼もいつかうるみだしているようだった。
 
 (何を言わなくとも、こっちの心は見通していてくれているのだ……)
 
 信長は家康に会釈するよりも先に、
 「そちが子鬼の家臣か。話は聞いたぞ!」
 
 「よくやった! 川の底を歩いて来たと……ハッハッハ、こんどは空をかけて参れ」
 
 「もはや時は移せぬぞ浜松どの」
 
 「ーーこの小城ひとつ落とせなかったと言われて、天下に号令がなると思うか……」
 
 (反対するほど意地になるのだ……)
 
 「ーーこれで武田家も終りでござるな」
 
 「落つるものかこの城が。一両日のうちは、織田、徳川の連合軍四万がやって来るわい」
 
 (とうとうつかまった……)
 
 「この重囲を破って使いし、しかも城へ戻ってみなと生死を共にしようとした、その性根、敵ながら見上げたものだ」
 
 「そこで、その方に相談じゃが、その方にここで手柄を立てぬか」
 
 「ーー援軍はまだまだ来そうもないと。それだけでよいのだ」
 
 ……一つだけ計算違いしていると思った。
 それは鳥居強右衛門という男が、自分の生命を助かりたいために、味方を裏切ることなどできる男ではない……という、たった一つのことを見落としている。
 (それでよいのだ……)
 
 「よいかの、すでに四方の大軍を率いて岡崎を発しました。両三日のうちにはきっとご運は開けまする。城を堅固にお守りなされや」
 城内にドッと歓声のあがるのと、武田家の足軽二人が岩の上へ躍りあがって、強右衛門を引きおろすのとが一緒であった。
 
 「申し訳ないが、しょせんこれが武士の意地とおぼされたい。貴殿とて、ここでまさか、味方の不利は口にできまい。穴山どのには済まぬこといたしたとよくお詫び下され。その代わり、このあとはご存分に……心の済むように……」
 「言うなッ!」
 
 「あいや鳥居どの、お身こそはまことの武士、お身の忠烈にあやかるために、ご最期の様子を写しとって、旗印にしたく存ずる。……」