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大将は士卒の何倍か苦しむべき

2015年12月31日 (木) 19:56
大将は士卒の何倍か苦

◎露見
於義丸は……家康の前に坐らされると、こやつ、何奴であろう?、といった表情で、わが父親を見上げた。
「ーーふーむ、大きゅうなった」

「ーーよいか、これからこの能はじめをわが家の慣例としてゆくぞ」

(大将は、つねに士卒の何倍か苦しむべきはずのもの)
辛棒も忍耐も、衆に超えたものでなければ衆を率いる力はない、とみずから戒めている家康だった。

(ここで出会うとは何たる好機!)

「なに、弥四郎がことで」

「話があったら、城へ戻ってから聞くとしよう」

(それだけに、この話は相手に納得させにくいが……)

(近藤壱岐、戦場で死ぬばかりが武士ではあるまい。生命を賭けよ、生命を投げ出せ……)

戦場での働きと違って、人の悪口を口にするのが、すでに彼の性には合わなかった。その不得手をかざして相手を説き伏せる……そうした弁舌の力となるといっそう自信はなくなってゆく。

「いいや、大殿は、バカ殿じゃ!」
「壱岐!」

「弥四郎が謀叛を企てていると言っている。……」

「はい。あやつ一人がいるために、古い老人(おとな)どもなど、みなつむじを曲げて、殿に思うことさえ申し上げぬ。みな殿はあの白狐にばかにされていると申して」

「……事の真偽をたしかめて参れ。……」

「で、残るところおぬし一人、おとなしく大小を渡すであろうの、さすればこの忠世も一応用は済む」

お松と弥四郎の夫婦はなみの夫婦ではなかった。足軽の息子と足軽の娘が、とにかく苦労を分けあって、重臣の地位を得るまでの並みなみならぬ努力を重ねた夫婦であった。

「足軽の倅には、しょせん、忠も義もない。あるのは出世慾だけだったと言うのかッ」

「……腹が減れば飯を食い、女が欲しければ色にふける。領地も金も米も名誉も欲しくてたまらず、憎い奴を遠ざける……これはおれとどこも変わらぬただの人間……いや、そうした殿の値打ちをおれにハッキリとわからせてくれたのは築山御前だった」

「たとえば、殿の処刑が正しいものとしても、この弥四郎の忠義は曇らぬぞ。殿はこれに懲りられて、この後にぐっと大きく伸びるであろう。そうした忠の計算は弥四郎でなければできぬ。弥四郎の一族の血が、殿を伸ばすこやしになるのだと言ってやれ」


◎妻の立場
「ーー私は、貧乏な足軽の家にうまれました。それを忘れては罰が当たります」

(何も知らぬのだお松は……)

「妻女……わしはこなたたちを、よい夫婦、似合いの夫婦と思うていたが……やはりおぬしたちも大殿と築山御前のように、大きな悲劇の夫婦であったわ」

「は……? でも、弥四郎に限ってそのようなことは」

謀叛となると、いずれの国、いずれの家中でも妻子一族、あげて梟首(きょうしゅ)か獄門の極刑と決まっているのに。

「磔……あの、頑是ない子供たちも」

(私は、あれほど、それを恐れて、あたりに気を配って生きて来たのに……)
お松は、そっと坐り直して、
「済まぬことを弥四郎どの……」
と、心の中で良人にわびた。

「まあ、離縁状を……」
「ところが弥四郎は離縁どころか傲然として大久保どのを愚かな奴と罵ったそうな」

「若さま! あの人は昔から私が側にいてやらねば、淋しゅうていられぬ“やくたい”なしでござりまする。そのような良人に、大それた謀叛をさせたは、やはり私の罪であったと、ようやくさっき悟りました」


◎裁く者
(わしは家来を見る眼がなかったのだろうか?)

実直な一人の男が、あまりとんとん出世しすぎて、夢と現実の境があいまいになって来たゆえだと家康は反省した。
(あまりに早く、重く用いすぎたのだ……)

あまりに勝ちすぎている者と、あらゆる苦戦の経験者とを混同してはならなかった。両者をきびしく分けてそれぞれの持ち場を決めてゆかなければ、甘く見て敗れをとったり、慎重すぎて戦機を逸したりする者が出るかも知れない。

「ふーむ。三郎がわがまますぎる……と、そちはわしに言っているのか」
「はい」

「もともとあやつは狂っておりました。慢心が高じたものと存じます」

「はい。ただそれだけではなくて、これが殿お一人の裁きではなく、下士や百姓、その他の領民をもまじえて協議させたら、おそらくこの弥四郎を殺せという者は一人もあるまいとさえ言いました」

「なにッ、……」

「弥四郎の処刑は決まった。決まったぞ」

「よいか。助けぬ態にして助け、父の名を知らさぬようにして育てるのだ。そのことはそちに任そう。くれぐれも家中の者に手ぬるいと思われぬよう心を配れよ」

「弥四郎めは、真実、おのれが、この家康よりも正しい者と信じきっているのだ」

「磔ではない。あやつの言うとおり、領民の手で裁かしてやるのだ」

「大事な戦いを前にして謀叛を企てた弥四郎めをのこぎり引きの刑に処す」

(殿はほんとうに怒ったのだ……)

「通行人が助けるか、それとも憎んで引き殺すか、弥四郎か家康か……それゆえ家中の者に見張らせるには及ばぬぞ」

「よいか。それみなうぬの申し状をもっともお聞き入れなされての計らいじゃ」

「昔から今川勢と仲ようすれば、今川勢に、織田どのと仲ようすれば織田どののために戦わされる。戦いというのはな、お殿さまがいちばん強うならぬうちはやまぬものだ。

(燃える土の巻 了)


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