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苦痛の底でねばりぬく

2016年01月01日 (金) 00:00
苦痛の底でねばりぬく

7巻 颶風の巻

◎緒戦
勝頼「岡崎には、苦肉の策での、ただちに入城できる手はずがついている。ハハ……はじめは長篠攻めのつもりが、お父上の遺志を奉ずる天下分け目の戦になったわ」

釣閑「恐れながら仰せのとおりにござりまする。お父上さまも落とせなかった城を落としたが慢心のもとと……」

「この勝頼の生涯に二度ない好機、父の遺志を継がせてくれ、三河勢など……長篠城など……ひと揉みに揉みつぶしてみせてやる。小異を捨てて微力な勝頼を助けてくれ」

「武節に入ると吉報があろう」

「なに大賀弥四郎が!?」
「はい。謀叛の罪と、はっきり高札に認めてあった。間違いないといいはります」
「その者をこれへ呼べ! 敵の廻し者に違いない。たわけたことを!」

戦魔は勝頼に過酷であった。
大賀弥四郎の刑死ーーという一つの蹉跌(さてつ)は甲州軍にとって決して小さな出来事ではない。
それだけに、ここで一歩冷静に作戦を練り直すべきであったが、事態は逆に煽っていた。

九八郎はこの戦を、しごく単純にわが若さで割り切っていた。
「ーー長篠の落つるときは徳川方の滅びるときじゃ」
そう言った家康の言葉をそのまま鵜呑みにしていた。この城に、家康にとってはただ一人の姫、亀姫が嫁いで来ている。したがって家康が、自家を見殺しにするはずはないと、固く信じているからであった。

「わらわは、たとえ舌噛み切っても、殿に添い臥しはいたしませぬ」

(あれは女子ぎらいなのではあるまいか)
表の小姓の中に、自分など無視したまま、一生過ごせる人なのでは……

「何をするのじゃ! かよわい女子を……待て殿!」

「姫が、身も心もわが妻になるまでには幾年かかるかと心ひそかに案じていたが、これは案外なことであった。心の底では、姫は九八郎を好いていたと見えるなあ」

「よい女房におなりなされ。それが女子の仕合わせというものだ」

「ワッハッハッハ……」

「五百に一万五千でござるか。これは戦い甲斐がござりまするなあ」

「これは戦い甲斐でござるまい。死に甲斐でござろう」

(これは籠城せよという意味なのだ)

一人の人間の、ふと洩らす溜息が原因となって、全軍の士気のみだれる場合がしばしばあった。

「みなの衆、わらわこの山国へ嫁いだおかげで、赤土の炊き方をおぼえまいてござる。炊き出しはこの姫が先頭に立って勤めまするゆえ、思うさま戦うて見せて下され」

「ワッハッハ……これで勝ったの、勝ったわ勝ったわ」
はじめのうちはこの九八郎の笑いに合わす者は稀であった。
しかし、日夜の訓練がやがて彼らを不敵な明るさにしていって、今では九八郎が笑うとみんな大口あけて、咽喉ぼとけを陽にさらすようになった。

信長の武装の早さはこのあたりまで聞こえていたが、九八郎貞昌はその反対だった。
ゆっくりと、あの紐、この紐をしらべていって、楽しむように結んでゆく。
が、いったん支度ができると、それから命令は峻烈をきわめた。
畳という畳はすべてあげさせ、襖はきれいに取り外された。

九八郎は……
「その方、五百と一万五千の算盤ができぬと見えるの。無駄に一兵を損ずるは、三十人を失うことじゃ。二十人の兵を失うは六百にあたるとは気がつかぬか、軽々しい出撃は断じて許さぬ。華々しい討ち死によりも、苦痛の底でねばりぬくのがこんどの戦の勇士と知れ」

「よいか。あの綱一本に三十人ほどすがって来たら、二発打つのだ、一発は上からまっすぐ全的に射よ。一発は綱を切るのだ。おびえて的を外すでないぞ」


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