◎弥四郎の計算
信長はこの一戦に勝ったかに見える勝頼が、実は宿将老臣の反感を高めて、わが足もとへ崩壊の淵をうがってゆくのだということがハッキリと分かるからであった。
(果たして、次に卷き起こされる運命の一戦を、信康が知っているや否や?)
「のう大賀……」と、また信康は弥四郎に向き直った。
「生きて戻ってこそ、次の奉公もなる道理だ。こなたならば、節を屈したと見せかけて一たん石牢を出たうえ、隙をねらって浜松へ戻るが上策とは思わぬか」
この言葉は何がし弥四郎をギクリとさせた。
小侍従の事件があってから、信康の性癖はいっそう片寄って来たようであった。
家臣のだれかれに軽んじられまいとして、しきりに武辺話を好むばかりか、ひどく怒りっぽくなり、尊大になっていたが、その裏には、御台所徳姫の実家を恐れる心がひそんでいる。恐れながら恐れていないと、てらう幼いあせりがまざまざと感じられた。
したがって、信康に正面から諫言するものはほとんどいなくなった。
徳姫は……
姑の築山御前はむろんのこと、あやめも腰元たちも自分の味方とは思えなかった。
弥四郎
(これで信長は援軍を出ししぶろう……)
「思いきって築山御前を」
「えっ? 御前は……御前は、わらわの味方ではないか」
「ハハハ……」と弥四郎はまた笑った。
「わらわは御前を味方とは思わぬ。それゆえ、もし疑惑の眼がわれらの上に光ると見たら、すすんで御前の内応を大殿に密告し、有無を言わさず……」
「そうか」と、平左衛門が押しころした呼吸で応じた。
「二月には勝頼公が出て来られるのか」
「いかにも、三月には岡崎城の城主はわれらに変わっていようて」
「それならば……」と山田八蔵は弥四郎の言葉を奪って、
「なおさら築山御前を討つ必要は……」
◎小心小義
山田八蔵は……弥四郎の姿を想いだしてまた、……
「たしかに勝つ! 勝ってこの城の主になる人じゃ……」
(おれは人より臆病なのだろうか)
あと二ヵ月ほどで事がなり、自分が西三河のどの城かに殿といわれて納まることなど夢にも知るまい。そのときには女房おつねは奥方さまだが……
殿ーーといわれる身分になったら、自分はおつねを今のように扱うであろうか?城持ちともなれば腰元衆もおかずばならず、その中にもし気に入る女性でもあれば……と、ふと思ったのが面映ゆかったのだ。
そのとき、女房のおつねが……むき出された乳房がひどく動物じみた感じで眼に映った。
と、その瞬間だった。何がなし八蔵の背筋をぞっと悪寒が通りすぎていったのは……
(この女が、奥方さまと呼ばれる女であろうか……?)
(この女は奥方などと呼ばれる運をつかんで出て来た女と違うようだぞ……)
(待てよ!)
もし自分に運がないと、どういうことになるであろうか。
改めて見直すと女房だけではなくて、子供たちの寝顔までが急に運のないに見えだした。
「どう見ても、お供をつれて、あごで家来を叱りつける顔ではない」
「こなた、もし、わが家に、五人、十人と召し使いを使うようになったら何とするぞ」
「お前、また大賀さまに何かおだてられて来たと見える。おきなされ、あのお方は口先ばかりのお方じゃほどに」
「口先ばかりと言ったがわるければ、冷たい人と言ってもよい。自分に用のあるときはチヤホヤ言うが、用のないときには挨拶しても知らぬ顔じゃ」
不用になれば捨て、邪魔になれば斬る。
八蔵が何となく割り切れない気持ちだったのはその辺の冷たさにあったのではなかろうか……?
(待てよ……)
(おれたちに運のないということと、大賀弥四郎の冷たい人間だということ……この二つの間につながりはなかろうか……?)
「ある!」と、もう一人の八蔵が答えた。
(こりゃ、おれは間違うたぞ……)
彼は自分の妻子のために弥四郎の冷たさよりも家康の無視を取ろうと決心したのである。
「黙れッ!」信康は一喝した。
「まこと弥四郎が謀叛を企てたら、その方に相談すると思うか、たわけ者。あまりその方が、うつけゆえ、からかわられたのだとは思わぬか。退れッ!」
「謀叛の大将は大賀弥四郎、大殿若殿が長篠へ出陣した留守をねらって、この城へ足助街道から勝頼公を誘い入れる手はず、万々整うているのだ」
壱岐「なにッ!」
「うぬッ、もう一度申してみろ。ひねりつぶしてくれるわ」
(これは嘘ではない!)
この男の相談はこれもまた恐怖と打算。
そのころの、岡崎党の面々は、上下の心は通じあうものと信じていた。その信が、貧しさを超えた明るさと活気を城内にみなぎらせ、誰の顔も溌剌としてみえた。
それが今では、どこかにもの憂い沈滞をただよわしている。
(やはり若殿のわがままが原因であろうか?
)
(さてこれはどうすればよいのか……?)