◎破れ雨
武節、足助への初陣以来、戦場へも幾度かゆき、そのたびに父への尊敬を増して戻って来るらしい。
(男とはみなああしたものであろうか)
「ーーやはり海道一の弓取りはお父上ぞ」
「ーーおとぎはのう、あまり強くすぎると胎子(はらこ)とならぬ、歯がゆいことじゃ」
「弥四郎!」と御前の声が急に尖った。
「こなた、この瀬名何もできぬと、あなどっていやるな。それならばそれでよい退れッ」
「ホホ……もはやうろたえても手遅れじゃ。わらわの心は決まったほどに……弥四郎は謀叛人じゃ。殿の奥方をたぶらかし、不義を働いた極悪人じゃ……」
(恐ろしい、何という恐ろしい人たちであろうか……?)
(初孫の姫を殺せなどと……)
「ひとまず内々で岐阜のお館のお指図を受けられるが上分別かと存じますが」
「いいえ、それでは女の道にもとります。このたびのことだけはしばらく私にまかしてたもれ」
「こんどこそは武田勝頼の本陣を駆け崩してみせてやる、もはやおれも徳川の小冠者ではない。手柄話の土産を待てよ」
そうなると徳姫頬からも血の気がひいた。
「殿! 殿にはこの身の心遣いがわかりませぬか。証拠もないのに、はしたなく、あやめ風情を傷つける……そのような女子と、私を思うてか」
(あやめに、うつつをぬかして、これほどの大事にも耳を傾けぬ……)
「なぜ私の申すこと一通りお聞き下さりませぬ。大賀弥四郎は、母の御前をたぶらかし、殿を死地へ追いこもうと……」
……
「これはしたり、証拠あって申すことを」
「ええ聞く耳持たぬ!」
「あ……」
……
「殿! 何の罪もない小侍従を……」
「だ……だまれッ!」
と、同時に引きちぎられて投げ出された小侍従の屍体から、すうっと一筋、あやしい幻が宙へ立ってゆくのがみえた。
この姉妹だけはすでに弥四郎や築山御前の陰謀を知っている。それだけに今夜の徳姫の諫言も、信康の怒りもわかる気がした。
◎胆のありか
(やはり越後は越後……)
と、どこかで軽んじている信長だった。
信玄の存命中には謙信と結ぶよりほかなかったが、勝頼の代ともなれば事情はかなり一変している。ただ謙信と事を構えて争うことさえしなければそれでよかった。
(謙信入道、勝頼を買いかぶってござる……)
「やれやれ、くたびれたわ。気骨の折れることじゃ……」
「えっ? ではまた遠州へ」
「何かあったな、上杉がこの信長に快(こころよ)からぬことを勝頼が知っている……勝頼が越後にすがることはあり得るし、謙信入道は義気につよいが志は天下にない。いや現実の天下よりも、時空を貫く義に重きをおく大将だ。勝頼は謙信入道が背後を衝かぬと知って遠州へ出たとしか思われぬぞ」
「武田家の滅亡も遠くはないの」
「そうだ。この信長はやむない戦だけに兵を動かすが、勝頼は、自分の強さを認めさせようとして戦いまくる……戦うのが好きなのだ」
「……これでは軍兵がたまるまい……」
「……三万の兵が一万に減ずれば、宿将老臣、みな離れていって滅亡するわ。二年じゃの、あと」
「……宿将老臣どもに、父に劣らぬ猛将さを見せようとして、逆に見放されてゆく。このように戦好きでは兵が疲れてたまるまい」
「兵の疲れを休めさせるは、いずれの大将も心掛けねばならぬこと」
「なるほど、それでおれの心は決まった!」
「お役に立ちましたかご思案の」
「立ったぞ濃、おれはすぐに援軍の出発の用意にかかる。決めた!」
「それゆえここでは、浜松の城は出ず、まず、援軍を西に求めるが得策とご思案なされました。何しろ西の大将も、油断ならぬ大将ゆえ、すぐに援軍を差し向けてくれるかどうか……? これもここらで試そうため……」
「黙れッ!」と、信長は一喝して、腹をかかえて笑い出した。
「家康がこんどおれに援軍を求めて来たのは、求めて来た相手の肚を、おれに読む力があるかないか……言う探りもあると思うがよい」
「何か妙案はないか。さすがは信長! と、言わせる手段じゃ」
「これはの、この信長と家康の一生の交わりを決定するほどの大事なのじゃ。よいかの。相手はおれの肚のありかを探って来た。おれはそれにははっきりと胆で答えてやらねばならぬ」
「お父上は織田の援軍を待っておられるのですか」
「もし織田勢の到着以前に城が落ちたらお父上は与八郎たちに何と言われると思し召します」
「負けたと言われるまでのことよ」
「お父上! このままもし高天神を見殺しにしたのでは、お父上は冷たい大将、頼まれぬ大将とみなの心が放れませぬか」
「戦うばかりが戦ではないぞ三郎」
どうやら家康も、わが子に言いたいこと、教えたいことがいっぱいありながら、信康の理解の限界を考えて逡凖していたものらしい。
「戦いたいとき、じっと耐えて動かぬ辛棒も戦のうち、甲州の信玄公はその戦いに強かった」
「この戦、領内を飢饉にせぬのが第一の勝利、勝利のためには援軍も乞わねばなるまい」
「腰ぬけではない。利を知って義に浅い。それにわが身の武勇に慢心している。……」