◎二つの策謀
「しからば減敬どのがおられましょう。岡崎から引きあげられた医師の減敬どのが」
「なに岡崎だと……いよいよもって怪しいやつだ」
「減敬どのでござりまする。ご存じありませぬか。勝頼公の秘命をおびて、岡崎城内にあった減敬どのを」
「頼まれれば是非もない。み仏は衆生一切の悩みを解けよとお命じなさる」
「一所不在、天海自在の陏風と申す」
「これこれ所縁の人、そう簡単に広大無辺の仏意を割り切れるものではない。事の成らざるがかえって慈悲の場合もある」
「なにしろこれはみ仏の声だでのう。よいか、み仏が仰せられる。勝ちは徳川方じゃとのう」
八蔵「何で徳川方が勝つのであろうか」
「信玄公の死は確実、勝頼と家康とでは器が違う。人相、骨相みなちがう……いやいや、それ以上に大切な、ここ数代の父系母系の仏心の量が違う……これが大切なのじゃ。今生の盛衰すべてはここで決する。と言って凡俗の眼にはむろん見えぬが……」
「愚僧の眼に狂いがなければ、こなたはいま、大きな運のわかれ路に立っている。……」
「では、くれぐれも大切にの。いま、こなたは、一歩を踏みあやまると生涯浮かぶ瀬のない淵へおつる。つねに人生は、本日只今が一大事と固く心にきざむがよいぞ。ではだいぶ暗くなったでお別れする」
「それはご奇特な。やはりこなたとは深い縁があったと見える」
心に迷いのあるときほど、人間の弱さはあらわに表に現れる。……
……迷える者はつねに暗示が必要なのだ。それゆえその迷いの内容には立ち入らず、常識の則(のり)を超えない助言こそ名僧智識、いまの八蔵には絶対にそれが必要なのだと陏風は見抜いている。
「ご喜捨いたす」
「武田方はおやめなされ、これはの、いま大きな落日のあと。きらびやかに見えたは信玄という陽のおつる夕映えであったのじゃ。いや、それに第一こなたとは性が合うまい。こなたはこなたの正直さをよく知ってくれる者を主に選ばねばならぬお人じゃ」
「山路に迷い、雨にうたれて困っている者、一夜の宿を願われまいか」
「あっ!」
「ハハハ……わしにはつまらぬ慾がない。大きな慾はござるがの。それゆえ仏がみな、こうすればこうなるものぞとお教え下さる」
(いったい自分は何のための使者だったのだ)
急いで岡崎へもどって、弥四郎の陰謀を信康に訴え出ることであった。
(おれは悪党ではない! おれは神仏に見放されてはいない……)