◎礎
「ーー捨ておけ。家臣への聞こえよりも駿府への聞こえがおそろしいわ」
「と言うて、わざわざ瀬名を怒らせるにも及ぶまい。色恋はのう、かくれて通うところに、また一入の想いがある」
「……和睦しようではないかと、……」
……
「……わしには引き受けかねる、……」
……
「それゆえ和睦のことは承知したと申されたい」
「……世の中にはやたらに主君を持ちたがるものと、そうでないものと二様がある。……それゆえ、生きている間は家来にならぬ、今川家の義理にしても、これが君臣の義ではのうて、武人の間の情にからんだ義じゃ。情にからんだ義ならば、童のおりにともにあそんだ織田どのにもある。それゆえ……」
(これは並みの大将ではない……)
信長を烈風に煽(あお)られた火焰とすれば、これはその火焔の上で静かに照っている月を連想させるのだ。
「昔は小さく、腹を立てたこともある。が、あの事件がのうては、わしは織田どのは逢うてはいまい。神はの、ときどき人間の知恵を超えた計らいで遠い先をおもんばかってくれるものじゃ」
見覚えのある門前に、めっきり白髪のました加藤図書助の姿を見出だしたとき、元康の眼のふちはまっ赤になった。と、その図書と並んで一人の女性がかつぎをかしげて立っている。
それが熱田参拝の名で呼び寄せられた元康の生母、於大の方と知ったとき、元康はすでにわが身はしっかりと信長に抱え込まれているのを感じた。
(よし、これをわが起つ礎にしなければ!)
◎花の狂い
人間は享楽するために生まれて来たのだとはっきり公言する者がでてくると、さすがの氏真も捨ておけなかった。
「……苦心に苦心の苦肉の計で、ようやく救い出せしもの」
(ーー殿! お聞きでござりましょうか。氏真めは、急いで人質替えと言いましたぞ。おめで……おめでとうござりまする)
ただ瀬名だけは、岡崎へ近づくほどそわそわと落ち着かない様子であった。
◎築山御殿
二人が争ったのではなく、母一人がむずかっている。母のむずかりには慣れている姫であった。
「……信長はそれを言わずに、自分の方から姫を岡崎によこそうと言うて来た。人質を取る代わりに、姫をやるゆえ協力しようと……竹千代をやるがよいか。尾張の姫を迎えるがよいか……」
家康は軽く目を閉じて語尾の呼吸をしずかに殺した。
「わかったのう、女子が思う男と添いとげられる……そのような甘い世の中ではない。それゆえ予も……」
と言いかけると、瀬名の手からパッと茶碗が庭へとんだ。
◎良人と妻
妻にとって肉体を征服されるということは反撃を要するほどの怨みなのであろうか?
家康はつねに世の中や環境との関連の中で人間の欲望を考えようとしているのに、瀬名はどこまでも個人の幸福を追求する。
これが泰平無事にすむ世なら
……
瀬名にもわからねばならないはずなのに……
これもまた側女となり、妻となったら、おのずと欲するものは違って来るのだろうか?
自分にはこうして不快をまぎらす手だてがあっても瀬名にはない。同じ不満をいつまでも胸に煙らしてじりじりとじれている。
「そこに妻の哀れさもあるのだが……」
「はい。お殿様に恋してござりまする」
「ーーほほう、あんな女子か」
しかもその女子の首に手を回し、われを忘れている家康の姿が、さまざまな姿勢で想像される。
(お万はそれをいつまでものぞいているのだろうか)
良人は他の女を擁して恍惚としているのに、自分は孤閨(こけい)に腹ばって、雨の日の花のように泣きじゃくっている。
「は……はい……お殿さまにみとめがられました」
「なにっ!? 殿に……」
◎奇人軍談
名は明智十兵衛
この男は少々ものを知りすぎている。いや、知っていることを鼻にかけすぎている。
その内乱の裏に、竹之内波太郎があるであろうと十兵衛は言うのである。
「……人間の力では四季は作れぬ。寒来れば衣を重ね、暑来れば衣を脱ぐ。が、その自然の動作もゆがんだ眼でながめやったら、寒を手伝い、暑を招くとも見えるであろう」
「するとやはり織田の殿が先に天下を制せられますなあ」
「……おぬし、この男が信長どのを生涯怒らせずにすむと思うか。……」
「信長も次へ踏み出す修業なら、家康も内を固める修業になるわ。なるほどこれはよく考えた」
「ほほう、これはおどろいた。こなたには天下取りの相がある」
「名月と申すは人の心にふと郷愁をもたらすもので」
「猿よ。そちは女子で運をやぶる相がある。くれぐれも心せよとな」
「女子というは一度濡れたら、濡れどおしでいたいもの」
「……哀れな女子一人のせつなる想い、遂げさせてあげて下されや」