◎雲を呼ぶ者
こんどこそ出陣していったら駿府へ戻って来る気はなかった。
(長い間、お世話になった……)
(駿府はわしのためによい道場だった。富士があった……雪斎長老がおられた……そして優しい祖母の墓と、妻と子と……)
「ーー人間はな、鼻で息のできる間に頭を使わねばならぬものじゃ」
「お褒めにあずかって浮かぶ瀬がござりまする。何分猿めは粗食になれた下賤の育ち、今日のようなご馳走を眺めますると、眺めただけで眩(めまい)がいたしまする。それをこらえて食する苦心……」
◎桶狭間前奏
藤吉郎には信長が何を考えているのか薄々わかった。信長にとって、……生きるか死ぬかの戦ではなくて、死ぬか降るかの戦である。
柴田、林、佐久間などの重臣が信長の欠点として、ひとしくかこっている彼の性格ーー大将たらずんば生き得ぬ気性。それに藤吉郎は眼をつけている。
「籠城じゃ、おん大将の腹は籠城と決まったのだぞ。……」
ーーみそかいにん足帳。
さながら重臣のような口の利き方をするくせ、人の名すら書けない無学さ。
(いったいこの男は、何であろうか?)
「これから時勢は変わりまするぞ。かつて世にある学問などというものはいっさい通用し申さん。通用しないものを、なまじ身につけると腰が重うて動けまい。それゆえ、拙者は、拙者自身が学問だとかたく信じて動いている。」