
◎竜虎
 あぶりたる山たちどもが出で逢うて
 串ざしにやせん田楽ケ窪
 
 藤吉郎が入っていったとき、信長は悠々と金扇をかざして舞だしたところであった。
 
 人間五十年
 下天の内をくらぶれば
 夢まぼろしのごとくなり
 ひとたび生を得て
 滅せぬ者のあるべきや
 
 「具足を寄こせ!」
 
 虎は野にあるもの、雲間の竜に闘いを挑まず、まず彼が地上におり立つ時を待って跳躍を開始する。
 籠城と、敵にも味方にも信じさせておきながら。
 
 「勝ったぞ猿!」
 「御意のとおり」
 
 「猿来いッ」
 
 「乗馬は疾風ぞ! ご出陣じゃ。急げや急げ」
 わめきながら藤吉郎はふいに涙が出そうになった。
 (ここまでやれる相手なら、この藤吉も死んでもよい……)
 ……電撃のように身内を走った。
 
 「出陣ぞ! 殿はもう馬に召されたぞ」
 
 ◎疾風の音
 「ーー家中を治めるは徳でござりまする」
 
 「ーー乱世というはな、古い道徳が価値を失ったときに生まれるものだ。徳とは何ぞ。徳とは……アッハッハッ」
 
 ひた押しに押して来る今川勢を丸根や鷲津で食いとめ得るものではない。信長の狙う戦機はその後にあった。
 
 「みんなの生命、おれにくれ。くれる者はうしろへ引くな。戦はこれからだぞ! くれる者だけおれにつづけッ」
 
 「どけ、どけ、申し上げます。殿!」
 ……
 「申し上げます。敵将義元、ただいま、田楽狭間に輿をとどめて休息の由」
 ……
 「なに義元が田楽狭間に……」
 
 「大義!」
 ……
 (勝った!)
 
 「名をあげ家を起こすは、この一戦ぞ! ただし個人の功を急いで全軍の勝利をのがすな。敵はみなで踏みにじれ。義元以外の首級はあげるなッ。わかったか」
 
 「早まるな。時を待てッ」
 
 礼の者の進物と、早暁の勝利と、思いがけない雷雨とがことのほかに今川軍を酔わせていた。
 
 義元も酔っていた。用心ぶかいこの大将が、こうした場所へ馬をとどめる……そのことがすでにあり得ないことなのに、礼の者のささげて来た酒樽が、ひそかに彼の隆盛を壊滅させる衰運の酒であろうとは……
 「何じゃ、今の物音は?」
 
 「服部忠次、今川屋形に見参!」
 
 「下郎!」
 
 「おのれッ」
 
 「なに織田……さてはここへまぎれこんでおったな」
 
 (ここで死ぬ……そんなバカなっ)
 
 駿、遠、三の太守は、こうして信長の野武士を真似た新戦法のもとで、毛利新助の指一本を食い千切ったまま田楽狭間の露と消えた。
 
 (朝霧の巻 了)