◎孤児登城
十種香を聞き終わって、……肥満している義元は膝にしびれを覚えだして、
「阿亀、脇息を……」
……義元は親永の娘の瀬名を鶴と呼び、義安の娘の椿を亀と呼んだ。
(あの尼僧はまだ帰らずにいるというのに、いったい何者なのであろう?)
「竹千代はこの阿鶴を好きか?」
「御所さまの仰せとあればやむを得ませぬ」
「はッはッはッは。そうかそうか。いや、よくわかった。阿鶴、聞いたであろう。お許はぜひにもというほど執心されてはいなかったぞ」
「どうじゃ竹千代、この姫は?」
「美しい!」
「そうか。阿鶴の方が美しいか」
鶴姫ははじめて顔をあげて、これも竹千代をべつの感情で見送った。と、竹千代は自分の席をとおりすぎてさっさと庭に面した縁まで歩いてゆくではないか。
「これ若! お席はここでござるぞ。お席は」
「あ!」
「これ若ッ!」
「これはおもしろい! これは肝に毛が生えた小童(こわっぱ)じゃ。これはおもしろい。わッはッはッは」
◎相手寄る者
雪斎「竹千代は孔子という古い聖を知っているか」
「はい。論語の孔子さま」
「そうじゃ。その方の弟子に子貢という人があった」
「およそ国家には食と兵と信とが、なければならん」
「子貢の、その三つが、ある事情でそろわないときには、まず何を捨つべきか……」
「食と兵と信………?」
「兵ーー」
「あとに残った二つのうちまたどうしても一つ捨てねばならぬときがきたら……?」
「信を捨てまする。食がなければ生きられませぬ」
「はい。でも、それから三之助も食べませぬ。全九郎の真似をしました。それゆえ、その次にははじめから三つに分けて、竹千代がまず取りました」
「信じあう心ーーというよりも、信じあえるゆえに人間なのじゃ。人間が作っているゆえ、国というが、信がなければ獣の世界……とわしは思う。獣の世界では食があっても争いが絶えぬゆえ生きられぬ……さ、今日はこれまで。尼どのと一緒にもどってな、諸将に回礼するがよい」
「じゃが尼どの、日々の素行、くれぐれも注意されよ。眼立たぬこと、眼立たぬこと」
(食があっても信がなければ、その食は争いの種子になる……)
鳥居の爺と、酒井雅楽助と……
(なぜ斬り合うのか?)