◎新生
厳しい御言葉です、日本国が御本尊を仇敵にしていると、千里の外から禍を招く……しかし、信ずる人は、幸いを万里の外より集める、と仰せです。
広宣流布の活動といっても、その実践の根本は、座談会と教学の研鑽である。
『衆罪(しゅざい)は霜露(そうろ)の如く、慧日(えにち)は能く消除す』
人間一人の不幸という現実は、時には術もないと思われるほど、想像を絶した悲惨なものである。戸田も、これらの姿を見て、たじろぐこともあったろう。妙法の功力の無量無辺であることは確信していたが、絶対に解決すると断言するには、自らが絶大な信力を奮い起こさなければならない。
彼は、逆流のなかに身を置く思いで、まず、自身の心中で戦ったこともあった。足をさらわれるか、さらわれないかーー指導の前に、まず、彼自身が勝たねばならなかった。
「それでいいのだ。大事なことは、所詮、御本尊に対して、赤子のように素直で、たくましい信心さえあればいいのだ。それが、自己も、家庭も、環境も、社会も、すべて必ず解決していくのだ」
彼は、胸中に、広宣流布の伸展につれて、やがて学会が社会をリードしていく時が、必ず到来することを確信していた。彼の今の実践は、その基盤を、一歩一歩、確実に、つくっていることにほかならなかった。
◎渦中
諸天善神を叱咤しながらの戦いは、幾度もあった。
「そりゃ、考えないわけじゃないが、腹が立っているうちは、いい知恵も出んよ」
宗内獅子身中の虫ともいうべき一派は、軍人ともつながっていた。…これらが、文部省の宗教行政を牛耳りつつあったのである。
…牧口の提議した、僧俗一体となっての「国家諫暁」は、時期尚早との理由で、宗門の容れるところとならなかった。
牧口の強硬な主張は、今や、彼を完全に孤立せしめていた。結局、創価教育学会は、反政府的な存在として、いきおい鮮明に浮かびあがらざるを得なかった。当局の日蓮正宗弾圧の的は、大きく変わって、創価教育学会を焦点に集中し始めた。
…学会は、一身に国家権力の圧迫の荒波を受け、…
…そして、神道を尊崇しようとしない言動を理由に、遂に学会を反国家的な団体として決めつけていったのである。
「国亡ぶるは賢人なきにあらず、用うること能わざればなり」
◎群像
彼は憮然として、ひとたびは信心を疑ったが、また信心を奮い立たせるより仕方がなかった。
「善からんは不思議、悪からんは一定(いちじょう)とをもえ……」
大聖人の御言葉が、彼の索漠とした心に蘇った。宿命打破のために、くぐり抜けていかなければならない試練が、どんな厳しいかを、その御金言は示しているように感じられた。
彼は、御本尊にひれ伏すようにして願った。
“今、疑いをもっている。……
「漆(うるし)千ばいに蟹の足一つ」
いけない、いけない。俺は、今、何もできない身だ。だが、御本尊を疑わないことはできる。俺の信心としてできることは、せめて、そのことだけではないか”
◎漣
夜はいま
丑満の
時はすぎ
うつろい行くを
我のみは
ひとりしねむる
テロリストの末路というものは、必ず悲惨なものだ。
広宣流布が進めば、あらゆる分野に、民衆のため、人類のために戦う優れた指導者が、続々とでてくるだろう。
ああ、甚深無量なる、法華経の玄理に、遇いし身の福運を知る。
戸田先生こそ、人類の師であらん。
祖国を憂え、人類に、必ずや最高の幸福を与えんと、邁進なされゆく大信念。
そして、正義の、何ものをも焼くが如き情熱。
唯々、全衆生を成仏させんと、苦難と戦い、大悪世に、大曙光を、点じられた日蓮大聖人の大慈悲に感涙す。
若人は、進まねばならぬ。永遠に前へ。
若人よ、進まねばならぬ。令法久住の為に。
妙法の徒。吾が行動に恥なきや。信ずる者も、汝自身なり。
祖国を救うのも、汝自身なり。
宗教革命、即、人間革命なり。かくして、教育革命、経済革命あり、政治革命とならん。
混濁の世。社会を、人を浄化せしむる者は誰ぞ。
学会の使命、重大なり。学会の前進のみ、それを決せん。
革命は死なり。
吾れらの死は、妙法への帰命なり。
真の大死こそ、祖国と世界を救う、大柱石とならん。
若人よ、大慈悲を抱きて進め。
若人よ、大哲理を抱きて戦え。
吾れ、弱冠二十にして、最高に栄光ある青春を生きゆく道を知る。