15 宗教に近づく
わたしのイギリス滞在二年目の終わりになって、わたしは二人の接神論者(セオソフィスト)にめぐりあった。二人は兄弟で、二人とも未婚だった。
サー・エドウィン・アーノルドによるギーターの英訳『天来の歌』
ーー人もし
その官能の対象に執着すれば
対象の魅力おのずから湧かん
魅力から欲望の生じ来たるあり
欲望はやがて激しき情熱の炎と燃え
情熱は無分別の種を 宿すにいたる
かくて追憶
ーーすべてははかなきーー
に高き望みに失われ
心は涸(か)れて
ついには志操心情
身命ともに失われてあらん
その兄弟はまた、エドウィン・アーノルドの著した『アジアの光』をすすめた。
そしてわたしをマダム・ブラヴァツキーとベサント夫人に引き合わせた。
「わたしはまだわたしの宗教についても未熟なのですから、どの宗教団体にも属したくありません」
マダム・ブラヴァツキーの『接神術の案内』を読んだことを覚えている。この本は、わたしに、ヒンドウ主義を論じた本を読む気持ちを起こさせた。また、ヒンドゥ主義は迷信だらけだという、キリスト教会の宣教師たちに言いふらされた見解のまちがいを、晴らしてくれた。
同じころ、わたしは菜食者ばかりの宿舎で、マンチェスター生まれの善良なキリスト教徒に出会った。
「わたしは菜食主義者である。わたしは酒を飲まない。肉を食べ、酒を飲むキリスト教徒はたくさんいる。それはたしかであるが、肉食も、飲酒も、聖典によって命じられたものではない。どうぞ聖書をお読みください」
旧約は通読できなかった。わたしは『創世記』を読んだ。…わたしは『民数記略』は好きでなかった。
しかし新約になると、感銘が違ってきた。『山上の垂訓』は、特別であった。…わたしはそれをギーターと比べてみた。
「されどわれはなんじらに告ぐ、悪しき者に手向かうな。人もしなんじの右の頬を打たば、左をも向けよ。なんじを訴えて下着を取らんとする者には、上着をも取らせよ」
という句にいたっては、わたしを限りなく愉快にし、そしてシャマル・バットの、
「一杯の水を与えられなば、山海の珍味をもってこれに報いよ」
…自己放棄こそ、わたしには最も強く訴えるものをもった宗教の最高の形式であった。
16 インドに帰る
学課は楽であった。弁護士は「会食弁護士」…試験は事実上値打ちのないものであることは、みんな知っていた。
ローマ法と慣習法の二科目の試験があった。試験問題はやさしく、試験官は寛大であった。ローマ法の試験合格者の率は、九五から九九パーセントであり、最終試験でさえ、七五パーセント以上であった。落第するおそれはなかった。…難しいとはとても思えなかった。
私は試験に合格して、1891年6月10日に弁護士の免許を得た。そして11日付で高等法院に登録された。翌12日に、わたしは本国に向け出帆した。
だが、わたしの勉学は進んだにもかかわらず、自身のなさと臆病は直らなかった。わたしには、自分に弁護士をやる資格があると思われなかった。
…そのうえ、インド法については、全く何も学ばなかった。
ダダバイ
「君の来たいと思ったときに、いつでも来て、わしに意見を聞いたらどうだ」
ピンカット氏は保守党員だった。
「並の弁護士になるのに、なにも特別の腕は必要としない。普通の正直さと勤勉さで、結構暮らしていけるさ」
わたしが少しばかり読んだものを、彼に紹介すると、思いなしか、彼はいくらか失望の色を見せた。しかし、それは一瞬のことだった。たちまち彼は楽しそうな笑いを浮かべ、そして言った。
「君の心配はよくわかった。君の一般読書は足りないね、君には、弁護士の必須条件の世間の知識がないね。君はインドの歴史を読んでいないね。弁護士は、人間の性質を心得ていなくてはならない。人間の顔から、その人の性格を読み取ることができなくてはならない。さらにインドの歴史を知っておく必要がある。…君はまだ、ケーとマレッソンの『一八五七年の反乱の歴史』を読んでいないようだね。すぐ手に入れなさい。それからもう二冊、人間の性質を理解するために読みなさい」
このような外界の嵐は、わたしにとっては、内心の象徴のように受け取れた。しかし外の嵐に平静を保てたわたしであったから、内心の嵐にも同じことだ、と考えた。
わたしは母に会いたい、とそればかりを思っていた。兄は、母の死をわたしに知らせずにいた。…わたしが胸に描いていた希望のおおかたは、こなごなにこわされた。
しかし、特にわたしが述べたいのは、メーター博士の兄の養子で、レヴァシャンカル・ジャグジヴァンという名の宝石商会の共同出資者、レイチャンドまたの名をラジチャンドラに紹介されたことだった。当時彼は、二十五歳にはなっていなかった。…わたしが感心したのは、彼が経典に精通していること、非の打ちどころのない性格であること、自己実現(神にまみえること)を目ざして燃えるような熱情を注いでいることなどで、…彼が自己実現のために生活していることがわかった。
わたしの生涯に、深刻な印象を残したのみならず、わたしをとりこにした人に、現代では三人がある。生ける交わりをしたレイチャンド・バイ、『神の国は汝自身のうちにあり』のトルストイ、そして『この最後の者に』のラスキンである。
17 生活の門出
わたしの海外旅行をめぐって、わたしのカーストのあいだに起きた嵐は、まだ吹き荒れていた。カーストは二派に分かれた。その一つは、ただちにわたしを再加入させたが、他の一派は、わたしを除籍したままだった。
「ですがわたしは、ラテン語を第二外国語として、ロンドン大学の入試に合格しているのです」
「そうです。しかしここで必要なのは卒業生なんです」
18 最初の打撃
兄「おまえはカチアワルの事情を知らないんだ。まだ、おまえにはまだ世間というものがわかっていない、ここであてになるのは、ただ縁故だ」
「まさか、私との友人関係を利用しに来たのではあるまいね。そうだね」
「君の兄さんは陰謀家だ…」
「もう帰ってくれ」
「そうおっしゃらずに、終わりまでわたしの言うことを聞いてください」
「…旦那を告訴しても、彼は一文の得にもならない。反対に、自分のほうを破滅させるばかりだ」
「今後、わたしは、二度とこんな虚偽の場所に入り込むまい。二度とこんなふうに友情を利用すまい」
と、わたしは自分自身に言った。…この打撃のために、わたしの人生行路に変化がおきた。
「私どもは、南アフリカで事業をいたしておるものです。…そして今、当地の裁判所に訴訟事件を起こしております。私どもの請求しております損害賠償額は四万ポンドです。…」
「どのくらい働くことになるでしょうか。それから、報酬はどのくらいでしょうか」「一年とはかかりますまい。私どもは、貴下に帰りの一等船賃と、全部で一〇五ポンドをお支払います」
わたしは値上げもせず、その条件で話をつけ、すぐ南アフリカにたつ用意にかかった。
アニー・ウッド・ベサント(Annie Wood Besant, ベザントとも表記されるが発音は「b s nt」, 1847年10月1日 ロンドン、クラパム - 1933年9月20日 インド、アディヤール)は、イギリスの神智学者、女性の権利(Women's rights)積極行動主義者、作家、演説家、アイルランドおよびインドの自治支援者、神智学協会第二代会長、英国フリーメーソンの国際組織レ・ドロワ・ユメー創設者[1]、インド国民会議派議長(1917年)。