ルネサンス83
マンデラ大統領の「獄中一万日」
さらに、二十一世紀への爽快なる旅立ちにあたり、私(名誉会長)は「正義と希望の巌窟王たれ!」との言葉を贈りたい。ご存じのように、「巌窟王」とは、十九世紀のフランス文学の傑作「モンテ・クリスト伯」(デュマ作)に由来する。悪人の謀略によって、長年、牢獄に捕らえられながら、巌のごとき信念で耐え抜き、真実を証明してしった─その勇敢なる人間を描いている。では、今世紀の「巌窟王」ともいうべき巨人はだれか?
それは、南アフリカ共和国のマンデラ大統領であると私は思う。実に二十七年半、約一万日に及ぶ投獄にも屈することなく、残酷な人種差別と戦い抜いた。「一時間が一年のようでした」と述懐されている。そして、今もなお、黒人も白人も皆が調和しゆく「虹の国家」の建設のために、奮闘しておられる。普通ならば、二十七年半も投獄されて「もういやだ」と思うか、「少し休みたい」と思うであろう。しかしマンデラ氏は出獄するや、ただちに猛烈な勢いで闘争を始めた。本物の獅子であった。
私は、五年前、獄中闘争を終えて間もないマンデラ氏と、語り合った(一九九〇年十月、東京で)。今も、深き信義で結ばれている。私は世界に、何人か氏のような「獅子」の友人がいる。
詩人の叫びが「闇」を破った
さて、マンデラ大統領の「闘争の人生」の原点はどこにあったか。その大きな転機は、高校時代であった。マンデラ大統領も、初めから「鋼の闘士」だったわけではなかった。幼少のころ、"黒人は白人よりも劣っている"と繰り返し教え込まれた。"社会の仕組みが、もともとそうなっているのだから、仕方がない"社会には、無力感とあきらめが蔓延していた。しかし、その惰性を打ち破る事件が起こったのである。卒業前のある日、著名な黒人の詩人が学校を訪れ、スピーチをした。その詩人は、校長をはじめ多くの白人が並ぶ前で、毅然と叫んだ。「余りにも長い間、我々は、白人がもたらした、誤った偶像を崇拝し、それらに屈服してきた。しかし、今や、我々は立ち上がり、こうした考えを捨て去るのだ」
マンデラ青年は、驚いた。そんな勇気ある声を発する人など、当時はだれもいなかった。その時の衝撃を、氏は「暗闇の夜を、彗星が駆けぬけたようだった」と回想している。「人間は誰人たりとも、平等であり、尊厳である!」という不滅の信念の光が、彼の胸に輝きわたった。その光を抱きしめ、大闘争の人生が始まったのである。
マンデラ大統領は、こう語っている。「私は、基本的には、楽観主義者です」「楽観主義であることは、一つには、常に太陽に顔を向けて、歩み続けることです」と。
輝き9
南アフリカのマンデラ大統領は、デマをでっち上げられ、無実の罪で白人の法廷に引き出されたとき、こう叫びました。
「私は刑期が終わっても、もう一度同じことをするでしょうし、自らを男だと名乗るような人間であればそうするでしょう」(『ネルソン・マンデラ 闘いは我が人生』)
何度、弾圧されようとも、どんなデマを流されようとも、獄中に死のうとも、男ならば断じて戦うと言うのであります。
輝き16
「誰も当てにせず自分が力を!」
南アフリカのマンデラ大統領は,二十七年半、じつに約一万日の獄中闘争を耐え抜き、生き抜き、戦い抜かれた。そして出獄の日、歓喜の大集会で力強く拳を突き上げて叫んだ。
「力を!力を!我らに力を!」と。
どこを頼るのでもない。自分たちが力をつけるのだ。誰を当てにするのでもない。民衆が強くなる以外にない―と。
学会が力をつけ、強くなれば、人類の希望である広宣流布は進む。
マンデラ大統領が、七年前(一九九○年)、初めて訪日された析、大きな喜びとされたのも、創価の青年たちとの出会いであったのである。
日本は、敗戦の破壊から立ち上がり、無我夢中で復興を遂げてきた。
しかし、戦後から半世紀を過ぎた今、社会のいたるところで、肉体の内部から腐っていくような腐敗が深刻化している。
この時に、今一度、立ち返るべき原点は何か。それは善なる民衆の活力を、生き生きと蘇らせていくことであろう。その蘇生の原動力は、学会にある。
なかんずく、わが青年部にあると私は確信している。
青春対話1
人を傷つける剣は、邪剣です。人を救う剣は宝剣です。
私は、南ア(南アフリカ共和国)のマンデラ大統領と二度、お会いしました。二十七年半―一万日の投獄に耐え、残酷なアバルトヘイト(人種隔離)を打ち破った「人権の巌窟王」です。長い間、ひどい差別が続いていた。黒人にとって、白人専用バスに乗るのは犯罪、白人専用の水飲み場を便うのは犯罪、白人専用の海岸を歩くのは犯罪、午後十一時以降に家の外にいるのは犯罪、先業しているのは犯罪、ある特定の地区に住むのは犯罪だった。黒人は「人間」あつかとして扱われていなかった。マンデラ氏は、いたる所で、何百もの侮蔑を見た。何百もの屈辱を味わった。
「何ということだ」「人間は人間だ/人間を差別するなんて、絶対に許せない!」。この正義の怒りが、マンデラ氏の「宝剣」となったのです。
「こんな狂った社会は、断じて変えてみせる!」と立ち上がったのです。そして地獄のような牢獄でも絶対に屈することなく、ついに三百四十年も続いた差別を打ちち砕いたのです。追害されている人が偉大なのです。バカにされ、踏みつけにされてきたマンデラ大統領は今、世界中から尊敬されています。
マンデラ ルネサンス86
さて、南アフリカに新政権が発足して、一年余り。
私の大切な友人であるネルソン・マンデラ大統領はその卓越した指導力で、懸命に指揮をとられている。(一九九四年五月に大統領就任)
さまざまな人種や民族や文化が?七色の虹?のように、それぞれの個性を生かしながら、調和しあう国土―。その「虹の国家」を目指して、マンデラ大統領の奮闘は続いている。そのなかで、かつて敵対していた人までが、一人また一人と協力者になり、マンデラ大統領を支持している様子も報道されている。
「敵をも味方に」―大統領のこの実践は、今に始まったわけではない。若き日からの人権闘争の歴史に貫かれた姿勢であった。
南アフリカ・マンデラ大統領の獄中の戦い
「どんな人も必ず変わる私は敵をも味方にする」
彼も心を開いた
大統領は二十八年に及ぶ獄中生活を送られた。ある時、マンデラ氏たちに対し、特に敵意を抱いていると思われる一人の看守がいた。そこでマンデラ氏たちは、行動を開始する。自伝には、その模様がこう記されている。
「すべての人を教育しよう。たとえ敵であろうと―これがアフリカ民族会議(編
集部注=マンデラ氏たちを中心とするグループ)の方針であった。
私たちは確信していた。すべての人間は変わることができる。刑務所の看守でさえも、変わることができることを。
だから私たちは、君守の心を揺り動かそうと、全力を尽くしたのである」
マンデラ氏たちは、その看守と友達になれるよう働きかけた。すると、初めはぶっきらぼうで、取りつくしまもなかった看守の態度が、やがて和らいでいった。
ある日、マンデラ氏たちが、物置の下で昼食をとっていると、その看守がやって来た。そして、「ほら」と言って、サンドイッチを置いていった。友情の表現であったろう。
こうして、初めはかたくなだった看守の心も、少しずつ閲いていった。
そのうち看守は、アフリカ民族会議のことについて、質問をしてくるようになった。看守は、マンデラ氏たちが、危険なテロリストの集まりだと誤解していたようである。そこで、マンデラ氏たちは「権利の平等」「富の再分配」など自分たちの目指すものを熱心に語り、看守の偏見を取り除いていった。このように、マンデラ氏は、身近なところから、敵をも味方にしていったのである。
地道といえば、実に地道である。しかし、こうした地道な対話の中にこそ、騰利の栄光は築かれていく。
マンデラ大統領は、自伝をこう結ばれている。
「私は、自由への、あの遙かな道を歩きつづけてきた。(中略)私はここで、少しだけ休憩している。そして周囲の壮麗な風景を眺め、これまでの道のりを振り返っている。だが、休息できるのは、ほんの一瞬にすぎない。自由には、さまざまな責任が伴うからだ。ぐずぐずしてはいられない。私の進むべき遠い道は、まだ終わっていないのだから」
これが、現在七十六歳の「人権の闘士」の気概である。