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ネルソン・マンデラ

2014年02月15日 (土) 13:05
ネルソン・マンデラ

4悲喜劇
刑務所から釈放された後のネルソン・マンデラの生活は、この上なく忙しいものだった。

1990年年から94年という期間は、南アフリカの歴史において、血と恐怖の時代だった。

ネルソン・マンデラが刑務所時代を思い出す時、郷愁の念があることは否めない。

第12章 嫌われ者から奇跡の人
私たちは敵を侮ってはいない。劣勢だった過去の紛争において、敵は勇敢に戦い、皆から賞賛された。しかし、当時彼らには、自分たちの独立という守るべきものがあった。今や、立場は逆転した。彼らは現在、国内では極めて少数派の抑圧者であり、世界的には孤立している。戦いの結末が今までとは違うものになるのは確かである。

冷静に話せば、交渉にあたって私たちがどのように重要事項に対処するかを、国民はしることができます。

群衆を煽動することはしたくありません。私たちが何をしているのか、理解してもらいたいのです。聞くひとに和解の精神を吹き込みたいのです。

かなり穏やかになりましたね。若い頃はとても急進的で、大げさな言葉を使っていました。そして誰とでも喧嘩していました。でも今は国民を導かなければなりません。だから、煽動的な演説は不適切なのです。

詳しいことは話したくありません。別れたのは個人的な理由からです。

アフリカ大陸における環境問題のほとんどは、貧困と教育不足のせいである。アフリカには砂漠化、森林破壊、土壌侵食、環境汚染に対処する資源もスキルもない。

アフリカの人々の貧困につけ込み、有害廃棄物をアフリカ大陸に捨てる。裕福な国々のせいで悪化している。金を渡しているのである。賄賂を渡して、環境汚染が引き起こす、あらゆる危険に人々を晒しているのである。

我々の強さは規律にある
平和的デモ行進の権利
あれは犯罪だった
民主主義の力
復讐からではない
いつでも準備できていること
何をするにしても、
平和的なプロセスの枠組みを
守らねばならない
平和的なプロセスを守っていないと
非難されることを許す余裕はない

その怒りをどこかにそらす必要がありました。私たちにできたのは、国中でデモを行い、人々に怒りを表現する場を与えることだけでした。…しかし、防衛策を採ったおかげで、突発的な暴力事件が時折起こった以外、デモはとてもうまくいきました。ハーニーを殺した人々の目標達成を阻止できたのです。

私が求めたのは主従関係ではなく、個々の同志が対等の立場で、迫害や疎外を恐れることなく、意見を自由かつざっくばらんに述べることができる健全な関係である。

指導者には2種類ある。
(a)一貫性がなく、予想できない行動を取り、今日賛成したことを明日反対する者。
(b)一貫性があり、信義を重んじ、先見の明がある者。

指導者がまずしなければならない仕事は、ビジョンを立てることだ。

本当に偉大な人は皆そうですが、威張り散らしたりしませんでした。

大衆の支持。世論調査によると、我々が大勝するという。しかし、問題は、有権者を投票所までどうやって連れて行くかだ。

民主的に選出された、初めての南アフリカ共和国大統領として私が任命されたのは、私の助言に大きく反して、私に押しつけられたことだった。

人種や素性にかかわらず誰とでもくつろげる庶民的な人は世界中の人間に賞賛されるものだ。

けれども、私は一期しか努めない意思を明確にした。

ロシェルは「おじいちゃん」と切り出した。「おじいちゃんを完璧に打ちのめしてしまう、お知らせがあるの」

搾取したがる人間の欲望

第13章 祖国を離れて
アラファトもエジプトに来ていたので、ムバラクと面談した後、アラファトに会いました。

身の毛もよだつような経験でしたよ。

群衆は私に触りたがり、握手したがり…。

アメリカ人はとても温かく、とても熱意がありましたね。

国際連合で演説しましたが、会議中はホテルに追いやられました。

アメリカの警備は本物です。高度なプロです。移動の仕方をしてくれました。一番危険なのは、車に乗るために建物などを出たときと、車から降りて目的地に向かうときだそうです。

クリントンの格式張らない態度は大したものでした。国民にあれほど身近な大統領なんて、なかなかのものです。庶民的なところに大変感銘を受けました。威厳を保ちながらも、庶民的です。

財産が国有化されてしまうのではないかという懸念を、企業から拭い去らなければなりませんでした。

「あなたはとても褒めていましたが、平和的な方法で政府に反対しただけの理由で、何人の人々がこの国の刑務所に入っているかご存じですか。選挙で政府に挑戦したいのに、政府は彼らのことを恐れて、刑務所にぶちこんでしまったのです」

パレスチナ…30年近くにわたる不毛な努力
アラファトのことは残念

第14章 故郷
原住民から土地を略奪し、鉱物資源その他の原料を搾取し、人々を特定地域に拘束し行動を制限することが、世界中のどこにおいても植民地主義の礎石である。

これはイギリス帝国主義が南アフリカで採用したやり方でもあった。そのやり方をあまりにも徹底した結果、1913年に土地法が議会を通過した後、人口の15%の白人が国土の約87%を所有することになり、国民の大多数である黒人ーーアフリカ人、カラード、インド人ーには13%しか残されなかった。

黒人をそんな目に逢わせたのは、悪名高い聖職者とその後継者が率いた白人のコミュニティである。彼らは技能と宗教を利用して、国民の大多数を占める黒人に対し、神が禁じる様々な残虐行為を働いた。

たとえどのような紛争においても、一方が完全に正しいとか、完全に間違っているとかいえない点に達する。真剣に平和と安定を望む者にとって、妥協以外に選択肢のない段階に達するものなのだ。

古今東西、無数の人間が生まれ、死んでいった。
名前すら残さない者もいる。あたかも、存在しなかったかのように。

世界各地に存在する道徳観の腐敗したコミュニティは、人類に対する犯罪として世界中から非難されている行為の継続を正当化するために、神の名前を利用したりしている。

しかし、百戦錬磨の、世界的に有名な「自由の闘士」ですら、歴史に弄ばされてきた。

何冊かの自伝を読んで感じるのは自伝はその人が関わった出来事や経験の単なる羅列ではなく、読者が人生の手本として使う青写真の役目も果たすということだ。

若い頃の私は、田舎者の短所と過ちと軽率さをすべて持ち合わせていた。

自分の短所を隠すのに、傲慢さに頼っていた。

服役中私を深く悩ませたのは、知らず知らずのうちに外の世界に投影された、誤ったイメージだった。聖人としてみなされたのである。私は決して聖人ではない。たとえ、聖人とは努力し続ける罪人であるという、世俗的な定義を用いたとしても。


【訳者あとがき】
「偉人」「聖人」に持ち上げられたマンデラではなく、おちゃめで、家族思いで、日常的な幸せに憧れ、時には悩んだり、絶望的になったり、怒りに身を震わせたりする、「人間」マンデラの姿を垣間見ることができるのだ。


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