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藤ノ尾車塚古墳

2014年01月29日 (水) 11:37
藤ノ尾車塚古墳

第三章 語りかける遺跡

「村山健治らが盗掘中」

盗掘品などを金で買って持っている人は、必ずいつかは不幸に見舞われる。

弥生土器が自家消費のため消費者が手作りしたのに対し、土師器と須恵器は専業者がロクロによって形を作り、登りガマによって大量生産されたものである。土師器が弥生土器の手法を発展させたものであり、須恵器が朝鮮半島から伝来した製法である。

邪馬台国比定について、学説は大学ごとにまとまっている。不思議でならない。
「たかが郷土史家のくせに生意気な」
そのよう郷土史家と大学教授の違いは、歴史研究によって給与を受けているかいないか、それだけのことである。

長い大規模な溝であった。その幅は五メートルないし6メートル、発掘部分の長さは東西に百メートル、西端から六十メートルくらいから、溝は内角約百六十度で南に向けて曲がりはじめていた。

邪馬台国の人々は、竪穴式住居を造るのに、地表からニ五センチないし三〇センチを掘り下げた。草ぶき屋根の、ちょうどテントを張ったような家だった。部屋中央に炉、南壁に貯蔵用の小穴を設けて、暮らしていたのだ。炊事用の流しがあった住居跡もある。弥生後期になれば、『魏志倭人伝』にいう「大人」は、高床式の家に住んだかもしれないが、一般人「下戸」は竪穴生活だった。竪穴式住居は平安時代までつづいたのだ。

「大人は皆四、五婦、下戸も或いは二、三婦」


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