
第二章 邪馬台国時代の筑後山門
 
 ◎『魏書東夷伝倭人ノ条』
 弥生時代後期の三世紀頃
 陳寿(ちんじゅ)「魏志倭人伝」
 倭人は帯方の東南大海の中に在り。
 山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。
 旧(もと)百余国。漢の時、朝見する者有り。
 今、使訳通ずる所三十国。
 郡(帯方郡)より倭に至るには、海岸に循って水行す。韓国を経て乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に至る七千里。
 
 (朝鮮)
 ●帯方(たいほう)郡(京城)
 ↓
 ↓七千里
 ↓
 ●狗邪(くや)韓国(金治)
 
 ↓始めて一海を渡ること千里
 
 ●対馬国<千余戸>
 
 ↓また南に一海を渡ること千里
 
 ●一支国(壱岐)<三千余戸>
 
 ↓又一海を渡ること千里 
 
 ●末廬(まつろ)国(松浦)<四千余戸>
 
 \東南に陸行すること五百里
 
 ーー●伊都(いと)国<千余戸>
 
 ーーー\東南して奴国に至る百里
 
 ーーーー●奴国(なこく)(那珂)<二万余戸>
 
 東行して不弥国に至る百里
 
 ーーーーー→●不弥国 <千余戸>
 
 水行二十日 ↓
 
 ーーーーー●投馬国(久留米)<五万余戸>
 
 水行二十日← →陸路一月
 
 ↓ーーーーーーー↓南して邪馬台国に至る
 
 ●黒崎→→●邪馬台国(瀬高町)<七万余戸>
 ーーーーー[女王の都する所]
 
 ーーーーーーー狗奴国(菊池郡)