五
ーー今後は勝手なことをしないでくれよ。もう父上の時代は終わったのだ。
長政の黒田家は五十二万石の大大名になった。
「おれの死後も決して兵助を粗末には扱うな」
「もしいくさのない世が来たならば、おまえはどうするつもりだ」
兵助「むかし安土で松寿様にお仕えしていたとき、よく安土様(織田信長)が相撲の興行をなさっていられました。大殿、相撲で食えないものですかね。そう言う世が来たならば、おれもいま少しまともに生きられるんじゃないかと思います」
如水は胸が詰まるようだった。兵助に人殺しをさせてきたのは如水だ。
「そういう世が来ればいいな」
長政にはどうしても如水に訊いておかねばならぬことがあった。しばらく咳払いしたあと「大殿」と意を決して尋ねる。
「石垣原の合戦で大殿が集められた大勢の牢人たちのことにございますが」
千人を越えていたはずだ。
ーーいったいその牢人たちはどこへ行ってしまったのか。
「牢人など、もう一人もおらん」
「おれは隠居だ、長政」
「だから、筑前五十二万石はおまえの好きにせよ。おれは隠居料もいらん」
黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。
豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。九州征伐の功績で中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍した。特に関ヶ原の戦いで大きな戦功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000石を与えられ、福岡藩初代藩主になった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。
生涯
織田家の人質時代
永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨国姫路城に生まれる。幼名は松寿丸。天正5年(1577年)から織田信長への人質として、織田家家臣の羽柴秀吉に預けられ、その居城・近江国長浜城にて過ごした。
天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻す(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させる為に伊丹城(有岡城)へ乗り込むも逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ父を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿丸は処刑されることになってしまった。ところが、父の親友の竹中重治が密かに竹中氏の居城・岩手山城に松寿丸を匿い、信長に処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせた為、からくも一命を助けられている。やがて有岡城の陥落後、救出されて疑念の晴れた父とともに姫路へ帰郷できた。
羽柴(豊臣)家臣時代
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の備中高松城攻めに従い、中国地方の毛利氏と戦った(備中高松城の戦い)。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、河内国に450石を与えられる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を務め、雑賀衆、根来衆、長宗我部水軍と戦った。その功績により、2千石を与えられる。
天正15年(1587年)の九州征伐では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津に12万5,000石を与えられた。天正17年(1589年)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。
慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田隊の活躍は凄まじく、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、東軍をしばしば敗走させた石田三成の家老・島左近を戦闘不能に追い込み、進軍を迷っていた小早川秀秋を一喝して突撃させ、西軍敗走の端緒を作り出している。さらに長政は調略においても西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの功により戦後、家康から一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前名島(福岡)に表高52万3千石、実高では100万石とされる大国を与えられた。
江戸時代
慶長8年(1603年)、従四位下、筑前守に叙任される。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸城の留守居を務め、代理として嫡男の黒田忠之が出陣。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では2代将軍・徳川秀忠に属して豊臣方と戦った。
元和9年(1623年)8月4日、徳川秀忠の上洛に先立って早くに入京したが、まもなく発病して京都知恩寺で、56歳で死去。跡を長男・忠之が継いだ。
辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空」である。