「山の風流が見たい」
「景気はどうじゃ」
「大殿様のおかげにて」
「参るぞ」
「風流じゃ」
「むかし太閤から言われたものだよ。おまえは平城の縄張りは得意だが、山城の縄張りはできるのか、と」
「どうだ」
静まりかえっていた山城から、永楽通宝を染め抜いた黒田の旗が、一斉に掲げられた。
「いつでもいくさできるぞ」
まだ如水の眼は死んでいなかった。
(完)
黒田官兵衛孝高(よしたか)
天文15(1546)〜慶長9(1604)
播州御着城主小寺氏の家老、黒田(小寺)職隆の長男として播州姫路城で生まれる。
若年から小寺氏の家老として卓越した戦略眼で播州の諸豪族に恐れられた。
羽柴秀吉率いる織田家中国方面軍が播州に入ると自ら進んで居城姫路を秀吉に提供、さらにその先導役を務めて近隣諸勢力の懐柔を行った。
しかし天正6(1578)年、信長に反旗を翻した荒木村重を説得するために摂津有岡城に出向き、そこで捕えられ約1年の間石牢に
閉じ込められてしまう。
陽も射さない劣悪な環境に置かれて唐瘡(梅毒)が発病、有岡城が落城し、1年ぶりに救出された時は頭髪は砂利禿げになり、足は曲がったまま立てなくなって、以降杖を突きびっこを引いて歩くことになる。
秀吉の右腕だった竹中半兵衛が播州三木城攻めの途中で結核により陣没した後は軍師として秀吉の天下取りに貢献する。
だがその謀才が仇となり、秀吉の天下統一後は警戒され、貢献の割には豊前中津12万石というぱっとしない石高しか与えられな
かった。
秀吉から警戒されていることを敏感に察知した官兵衛は隠居を申し出、出家して如水と号す。だが隠居はしたが領国に引っ込む
ことは許されず、秀吉の側に仕え続けた。
関が原の合戦では息子の長政が小早川秀秋を寝返らせるという大殊勲を立て、一躍筑前52万石に封ぜられ、長政の世話になりな
がら如水は穏やかな晩年をすごした。