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杵築城

2014年01月21日 (火) 01:25
杵築城


二十年前のぬかりのない配慮が、いま生きようとしている。
「あの杵築(きづき)城代ならば、おれの期待通りに動けるはずだ」

このたびの合戦の如水の策は「黒田勢が大軍であることを隠して大友軍を石垣原におびき出し、野戦に持ち込んで一気に決着を付ける」

あわよくばーーと如水は密かにたくらんでいる。三成に代わって徳川家康と関ヶ原でまみえることはできぬものか、と。
このたくらみを目の前で輿を担いでいる本田半三郎に聞かせてやったら、どんな顔をするだろう。気が狂ったか、と言うかもしれない。
ふふ、と如水は歯のない口で笑う。いくさを前にして笑えるのは、これが初めてだ。

じつは如水が大軍より先に大友本陣へ送ったものがある。講和を持ちかける直筆の書状だ。如水がいくさを避けたがっている印象を与え、大友方の油断を誘ったのだ。


ーーもしや、その鉄砲、雑賀筒では。

「大殿、石垣の向こうは深い窪地になっております。お味方の者、戻らないのではなく、戻れないのです」
「なんだと」
「誤った軍配を下したのはこの如水だ」

驚いた栗山四郎右衛門が背後から如水を羽交い締めに止めてきた。
「これが黒田如水のいくさであるものか」

ーー何と似てきたことよ、宗円様に

本来不利なはずの下から上への銃撃で、黒田方の鉄砲が圧倒していた。

「勝ったぞ」

「どうして狙いを外したのだ」
「お返しや」
「むかし、英賀(あが)の合戦のとき、わしを見逃してくれたやろ。あんときのお返しや」

「まさか」と如水の唇が刻む。
ーー関ヶ原の決着、もう付いてしまったのではあるまいな。
「徳川殿の勝ちにございます」
「佐吉、だらしないぞ」


杵築城(きつきじょう)は、大分県杵築市杵築にあった城郭。

杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。 当初は台山山城に主郭部が設けられたが、慶長元年(1596年)の震災と、慶長2年(1597年)の暴風雨によって天守などが損壊したため、台山北麓に居館が移され、正保2年(1645年)以降は松平氏により山上の郭群が廃止されている。

戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。城跡は、公園として整備され、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が建てられている。

明徳4年(1393年)に、木付頼直により築かれた。戦国時代、島津氏の大軍に攻められるが、籠城の末これを退けた。しかし、後に主君の大友義統が文禄の役での失態の責めを負って豊臣秀吉により幽閉されると、当主木付統直は自刃し木付氏も滅びた。

その後、前田玄以、秀吉の腹心だった宮部継潤、杉原長房、続いて慶長4年(1599年)には細川忠興の所領となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置いた。寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。その後、正保2年には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられ、その後明治維新まで居を構えた。

現在、山上は城山公園として整備され、一部石垣が残る。天守は慶長13年(1608年)に落雷で焼失して以来再建されなかったが、現在本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ資料館として利用されている。山麓居館部は、現在の杵築神社、杵築中学校一帯に位置し、神社北側に石垣が残っている。御殿跡には現在図書館と公民館が建つが、庭園の遺構が残る。また、旧城内城鼻地区に旧船形屋敷が現存し、現在は民家として利用されている。このほかに、藩校学習館の正門が、杵築小学校の裏門として現存している。


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