第六章 風雲の軍配
一
慶長三年(一五九八)八月十八日、豊臣秀吉はこの世を去った。黒田如水は思いもよらず、次の天下を生きてその眼で見ることになった。
秀吉の死から二年後の慶長五年九月に、関ヶ原の合戦が起こった。だが後世に華々しく伝えられたこの合戦の裏で、黒田如水の合戦が行われていたのだ。
如水は上方からの情報を逐一居城の中津へ送らせていたにもかかわらす、己の手の内は決して上方に知らせようとはしなかった。
ーーおれは播州牢人の目薬屋だ。田畑にしがみついてその物なりの分しか食わせられない、商売も交易も知らぬ頼朝の子孫たちとは違う。
「その方、初めての者であろう」
「この若造、井口兵助に似ておらんか」
「兵助の奴、うまくやっているだろうか」
「やはりこの若造、兵助に似ているよ」
ーー兵助ではない。
「名を聞こう」
二
「牢人衆の頭は何者であった」
「それがし、そのおり雑賀衆とも取引をいたしました。棟梁の孫一殿にお目にかかったこともございます」
「大殿、本物の孫一殿にございました」
「六郎ーーか」
ーー孫一、おまえの願いが叶うことはなさそうだ。
ーーまるで棺桶で運ばれていく老いぼれだ。
ーーおれはどこまで行けるのか。
ーーどうしておれはあのとき安鈴を抱いてしまったのだろう。
あの過ちさえなければ、と思わぬ日もなかった。
ーー人は養生に気を使えば八十まで生きられる。八十まで生きれば、それだけ多くの機会に恵まれる。酒や女に身を持ち崩すほど愚かなことはない。
「おまえ、眼つきが悪いな」
「そりゃ、眼つきの悪くなる暮らしをしてきましたから」
「天を恨むな、半三郎」
「むかし太閤に言われたことがある。誰かにひどい目に遭わされた時は、自分の何が悪かったのか、それを考えろ。ひどい目に遭わせた相手を妬むんじゃない、とな」
「大殿、ひとつうかがってもよろしいですか」
「太閤はその教えを守れたのですか」
「守れなかったさ」
如水はにっこり笑って答えた。
「人はみな自分の教えすら守れないのだ。太閤も、そしてこの如水も」
如水の寿命は、もってあと五年だ。
ーーいや、もっと短いかもしれない。
「やはり、無理か」
破顔した如水が竹筒の冷たい水を、ごくごくとあおる。
「ならば、この辺でくたばるか」
心地よげにそうつぶやいた。
黒田、細川、小笠原、奥平氏とつづく居城跡
中津城は、豊臣秀吉より豊前6郡を拝領した黒田孝高(如水)が山国川(当時高瀬川)河口の地に築城したのが始まりです。城郭の形が扇の形をしていたことから「扇城」とも呼ばれていました。現在の天守閣は、昭和39年に建設されたものです。
天守閣内には、衣装、刀剣、陣道具、古絵図、古文書など奥平家に関する歴史資料が展示されています。