第五章 蚊帳の中
だが三人目の御拾(おひろい)は前の二人と違って、大変に元気な赤ん坊だった。
ーーこの子は無事に育つ。
そう確信したときから、秀吉は狂いはじめたのだ。
秀吉はこの年、すでに六十二才。当時としてはすでに老境だ。
しかしーーと、如水は絶句した。
いまは如水よりも老けて見える。すでに大半の歯が抜けてしまった如水よりも、老人の顔になっていた。病のせいで衰えの早い如水を、一足飛びに越えて秀吉は衰えていったのだ。
血の粛清を伴う弾圧はときに必要だ、と如水は考えている。しかし秀吉の弾圧は、天下に何も生もうとはしなかった。額の汗をぬぐった如水の暗鬱な眼差しが、警固兵の囲まれてかりそめの平和を楽しむ父子へ向けられる。
その家康の顔には、如水も覚えがあった。あれは姉川の合戦の時だから、もう三十年近くも前のことだ。
「徳川殿」
「殿下」
「秀頼のことを頼み申す」
「あそこに不忠者がおる」
「うぬ、今朝がた中納言様に供奉したとき、中納言様のからくり人形を持とうとしなかったであろう。他の大名たちがみなその役を乞うて進み出たにもかかわらず、うぬひとり知らぬ顔であった。この秀吉が知らぬまま見過ごしているとでも思ったか、この唐瘡野郎。不忠じゃ。中納言様に不忠じゃ」
「目障りじゃ、去れ」
これが如水の聞いた、秀吉の最後の言葉だった。
「治部殿」
「佐吉、とお呼び捨てくだされ」
「御隠居」
「お気づきにございましょう。徳川の魂胆」
「もうわしにできることは何もない」
「まさか殿下の御恩を忘れたわけではありますまいな、御隠居」
「佐吉」
「家康とは喧嘩をせぬことだ」
「御隠居、お待ちください」
「右の袖をご覧ください、御隠居」
「よろしければそのカブトムシ、お持ち帰りになりませんか。確か御隠居はカブトムシがお好きなはず。むかしそううかがったことを覚えています」
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。
関が原の戦いにおいて西軍側の総大将として認知されているが、実際は総大将ではなく主導者である。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。
辞世の句
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり