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雑賀衆

2014年01月20日 (月) 20:32
雑賀衆

「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」
戦国時代、実際に言われていた言葉です。
戦国最強の鉄砲傭兵集団 「雑賀衆」、それは 大名家 とも 寺社勢力 とも異なる特殊な集団でした。
そして伝説の鉄砲使い 「雑賀孫市)」 が率いた集団としても有名ですね。さて、そんな 「雑賀衆」 とはどのような勢力だったのでしょうか・・・?
雑賀衆は、紀伊半島の南西部を支配していた勢力です。
紀伊半島は大きな半島ですが・・・ その大半は険しい山々に覆われ、海岸も絶壁になっている場所が多いため、当時は人が住むのに適した場所は限られていました。
しかし、大阪の南の一帯 (現在の和歌山市の辺り) には 「紀ノ川」 と呼ばれる大河があり、その周辺には肥沃な土地が広がっていたため、ここに多くの人々が住んでいました。
この人々が、「雑賀衆」 と呼ばれる集団となります。紀伊半島の山々からは多くの鉱石や木材を得る事ができたため、この地域では 鍛冶 や 林業 などの工業技術が発達していました。
さらに、雑賀の里は 瀬戸内海 と 太平洋 を結ぶ海運に適した土地でもあったため、古くから 漁業 や 貿易業 などが盛んに行われていました。
こうした土地がらのため、雑賀では山で働く人々、森で働く人々、海で働く人々など、それぞれの職人達の組合のようなものが出来ていきます。
そしてそれらの集まりの代表が相互に協力して運営されていた「共同体」でした。よって、雑賀衆は実際には1つの勢力ではなく、小勢力の総称と言えます。
実際、戦国時代の雑賀衆は大きく分けて5つの、土地ごとの組合のようなものに分かれており、それぞれが独自に行動していました。また、雑賀衆の近くには 「根来衆」 と呼ばれる小勢力も存在しており、これも紀伊半島南部に独自の支配力を持っていました。

織田信長 が 「本能寺の変」 で 明智光秀 に討たれ、豊臣秀吉 の時代が来ると、雑賀衆も滅亡に向かっていく事になります。
織田信長 の死後、豊臣秀吉 がその後を継ぎ、覇権を握りました。
しかしその 豊臣秀吉 は、雑賀衆・根来衆 が持っていた紀伊半島の独自の支配を認めようとしませんでした。
秀吉 は「検地です。
しかし 豊臣秀吉 は統一した制度で日本を統治しようとしていたため、「特例」は認めませんでした。
こうして、秀吉 と 雑賀衆・根来衆 は対立を始めます。そんな頃、豊臣秀吉 と 徳川家康 が対立関係となり、徳川家康が 雑賀衆・根来衆 に傭兵としての援軍を求めました。
こうして、「太田党」 を主導とする 雑賀衆 と 根来衆 は、秀吉 と 家康 が戦っている間に(小牧・長久手の戦い)、紀伊半島の 豊臣家 の城を攻撃し、秀吉軍 の背後を脅かします。
しかしこの戦いは、秀吉 と 家康 が講和をする形で決着。
その後、豊臣秀吉 は敵対行動を取った 雑賀衆 の討伐を決意雑賀・根来討伐の 秀吉軍 は、かつての信長の侵攻の時と同じく約十万の大軍。
一方、雑賀・根来軍 は合わせて2万程度でしたが、鉄砲 を使った篭城戦で迎え撃とうとします。しかし、根来衆 と 秀吉軍 の戦いは、当初は 根来衆 が優勢だったものの、秀吉軍 の放った火矢が根来衆の城の火薬庫に引火して城ごと大爆発!
これを皮切りに各地の根来衆の城も 陥落・降伏 して行き、本拠地の 「根来寺」 も炎上、多勢に無勢で 「根来衆」 は滅亡してしまいます。残った 雑賀衆 も次々と 秀吉軍 に降伏。
そもそも 雑賀衆 は、宗教勢力として強い団結力を持っていた 「根来衆」 と比べると結びつきが弱く、それでなくても分裂状態でしたから、それほど強硬な抵抗は見せませんでした。
しかし、雑賀衆 の 「太田党」 の中心勢力は、秀吉 に徹底抗戦の構えを見せます。
秀吉 はこの 「太田党」 を降伏させるべく、すでに配下となっていた 「雑賀孫市」 を説得に向かわせますが、太田党 は応じません。
彼らは 「太田城」 に篭城し、さらに謎の兵器 「飛んできて火炎と煙を噴出す筒」(手榴弾?)を使って 秀吉軍 の先陣を撃退します。そこで 秀吉 は十数万人という大勢の人夫を使って 太田城 の周りに堤防を作り、水を引き込んで城を 「水攻め」 にします。
堤防が完成したタイミングで大雨も降り、太田城は水上の孤城となって、ついに兵糧もなくなります。
万策尽きた 太田党 の武将達は自害し、城兵は降伏、こうして独自勢力としての雑賀衆は滅亡する事となりました・・・


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