楚兵が、勝った。
項羽は、悲痛だった。
(最後がきたらしい)
「あすだ」
ーーどうなされるのだろう。
側近のたれもが自分一個の運命よりも、項羽の身を案じた。
この時代の符ーー証文ーーは、竹か木であった。
初更(よい)がすぎ、項羽は虞姫(ぐき)を寝所にやった。やがて項羽も寝所に入るべく一同に背をむけたとき、肩が落ちていた。
ーー大王のあのようなうしろ姿をかつて見たことがない。
と、一同は青ざめる思いで、たがいに顔を見合わせた。
項羽は虞姫を抱いたまま熟睡した。
やがて乙夜(いつや)(夜九時から十一時まで)が過ぎるころ、眠りが浅くなった。
遠くで風が樹木を鳴らしている。風か、と思ったが、軍勢のざわめきのようでもあった。
(あれは、楚歌(そか)ではないか)
項羽は、跳ね起きた。武装をして城楼にのぼってみると、地に満ちた篝火(かがりび)が、そのまま満天の星につらなっている。歌は、この城内の者が歌っているのではなく、すべて城外の野から湧きあがっているのである。…楚の音律は悲しく、ときにむせぶようであり、ときに怨(えん)ずるようで、それを聴けばたれの耳にも楚歌であることがわかる。
しかも四面ことごとく楚歌であった。
ーーわが兵が、こうもおびただしく漢に味方したか。
「酒の支度をせよ」
みな、ともに飲もう
「酔うほどには飲むなよ」
「飲み了(お)えればめいめいが城を落ちるのだ。運を天にまかせ、いず方なりとも血路をひらいて落ちのびよ」
「まだあるか」
「酔え。ーー」
力は山を抜き 気は世を蓋(おお)ふ
時に利あらずして
騅(すい)逝(ゆ)かず
騅逝かざるを奈何(いかん)すべき
虞や虞や若(なんじ)を奈何せん
彼女が舞いおさめると項羽は剣を抜き、一刀で斬りさげ、とどめを刺した。
項羽の脱出は、すさまじいものであった。
ーーまさか項王ではあるまい。
「江南へ帰るのだ」
「黄金千金に加え一万戸の封地」
「諸公よ」
「わしは兵を挙げて以来、こんにちまで七十余戦を戦い、ことごとく勝った。そのわしがこんにちの窮境に立ちいったのは天がわしを滅ぼそうとしているからである」
「大王のお言葉のとおりでございます」
ーー天が、楚王項羽を滅ぼしたのだ。
「大王よ、早くこの船にお乗りくだされ」
(この男ならば、自分のやったことと、やろうとした志を長く世間に伝えてくれるだろう)
項羽の死は、紀元前二〇二年である。ときに、三十一歳であった。
◇あとがき
中国の政治は、ひとびとに食わせようということが第一義になっている。
劉邦の能力は、ひとがつい劉邦のために智恵をしぼりたくなるような人格的ふんいきを持っているということでもあったろうか。
あえて、一息に要約するなら『項羽と劉邦』は、人望とはなにかをめぐる明晰な考察の集大成なのである。
【感想】
項羽がすさまじい勢いで城から駆け逃げる姿が、瞼に浮かぶ、感動のクライマックス!!
日本ではまだ歴史も始まってもいない、紀元前の物語が、息づかいまでもが、生き生きと迫り、言葉では言い表せられないほどに、感動しました。
まさにタイムスリップした感じで、こんな物語に出会えたことに、感謝!!