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烏江・項羽祠

2014年01月14日 (火) 01:55
烏江・項羽祠

◎烏江のほとり

「劉邦は、窮鼠(きゅうそ)になった」

「いますこしの辛抱だ。彭城に帰れば飽食させてやる」

張良は、元来、体が弱かった。
「平素、食べすぎているから」
「断穀(だんこく)」

「ばかな。死ぬぞ」
劉邦は学こそないがーーむしろ学がないからこそーー儒家(じゅか)であれ道家であれ学問がもっている虚構というものにはひっかからなかった。
「気だな」
無のひとつのあらわれとして気がある。

中原はすでに広域社会になってからの歴史が古く、血族中心主義だけではうまくゆかないことを知りすぎていた。

義という文字は、解字からいえば羊と我を複合して作られたとされる。
…「我を美しくする」「人が美しく舞う姿」

張良が密使をして項伯にいわせたことは、
ーー前途はどうなるか予断を許さない。あなたにとって楚が負けるなどはありえないことかもしれないが、もしそうなった場合、ためらいなしに私をたずねてきてもらいたい。一命にかえてあなたの身の立つようにする。
項伯は、感動したらしい。
「楚軍は項羽ひとりで保(も)っているようなものだ。実体は自壊してい」
ーー庶民が世の中で生きていくための必要不可欠なものとして息づいていたかたちでの「義」からいえば項伯の項羽に対する主従の義など拵(こしら)えもののように貧弱なものであった。個人のあいだで冥々裡(めいめいり)に相互扶助の密契を結んだほうがはるかに大きい。
「たれから、きいた」
「陛下もご存じの、項王の肉親にあたるお人です」
「項伯どのか」

漢軍には食糧があり、籠城(ろうじょう)が少々ながびいても苦痛はなかった。一方、攻囲軍のほうが餓えているという。
「楚軍が撤退すれば、陛下が天下を得られる機会は永久に去りましょう」

「わしは、沛に居るべきだった」
「項羽の敵ではないのだ」

「陛下」
しばらくして、張良はいった。この男はいつもそうだが、このとき気味わるいほどしずまりかえっていた。
「陛下にはただ一つだけ活路があります」
「活路が。ーー」

ーーあいつを拾ってやったのはおれだ。
ーー自分を斉王にしてくれ。
あのとき怒っていれば韓信は自立して第三勢力になったであろう。

項羽の欠陥は、外交がなかったことであろう。

ーー世に彭越ほどいやなやつがまたとあろうか。
ただ物欲だけで動いている。

張良には、物事はかくあらねばならぬという儒教主義はすこしもない。
(韓信・彭越から倫理を期待してはならない)

「陛下は、なお儒学的でございます」
「なにをいうか」
「それでもなお、韓信や彭越に義を期待しておられます。陛下は広大な徳を持たれるがゆえに天下の半ば以上が陛下を慕い、本来ゆるされるはずのないかつての叛将(はんしょう)もふだつきの悪党といわれた男も、陛下のもとで安んじて働いております」
劉邦が、後世、中国人の典型といわれたのも、このあたりであろう。
「わしはそれだけが取り柄だ」

「見えてきた」
劉邦は、突如叫んだ。
「天下を、韓信と彭越に呉(く)れてやってもいいということだ」
「よくお見えになりました」
「わしは、沛に帰るのか」

(両人は、よろこんでこれを受け、兵力をこぞって項羽を撃つべく参戦するだろう)
ただ張良は両人が、これを受けたことによって将来身を滅ぼすにいたるであろうことまでひそかに予測した。

ーーそれがしがはじめて陛下に見(まみ)えましたのは、留(りゅう)(江蘇省)の町の郊外でございました。あの町一つを頂戴できれば十分でございます。
張良はその無欲のために漢帝国成立後の攻臣の没落からまぬがれ、すべてのひとびとから敬愛された。そういう留侯張良の家でさえ二代はつづかなかった。張良の死後、その子、不疑(ふぎ)が不敬罪に問われ、封地を没収された。

項羽のまわりから、急に潮が退(ひ)きはじめたようであった。
「なんということだ」
「いずれ、とりもどす」

「ぜんぶ食ってしまえ」
「かまわん、食え」

(楚兵が敵に加わったのだ)

北方の韓信が三十万の兵をひきいていそぎ南下しているという。
それだけではなかった。彭越軍も降って涌いたように項羽軍の付近で動きはじめていた。
「そうか」
(もはや彭城には帰れない)

この間、劉邦は遠くから項羽とその軍の動静を用心ぶかく窺(うかが)っていた。
(なにをするつもりだろう)
(気でもくるったか)

ついに項羽の流儀でいう戦機に、劉邦は乗らなかった。

楚人は魚を食う。
それだけでも、猪(ぶた)や羊を食う中原のひとびとから異俗視もしくは蛮族視されていやしめられてきた。

たとえば楚人はコメを食う。
とくに江南の地は、イネが作った景色であった。

この炎にために、項羽は他人の心というものが見えにくかった。このことは項羽に政略や戦略という感覚を欠かせてしまったことと無縁ではない。
さらにこのことは、馬を愛し、女を愛することにもつながった。


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