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張良

2014年01月13日 (月) 20:50
張良

◎漢王百敗

「項羽が奇襲してくるのか」
張良にきいた。
「来ないでしょう」
「なぜだ」
「項王は強者です。すくなくとも自分を蓋世(がいせい)の雄だと思っています。強者というのは、自分の名誉にかけても言葉を違えないものです」
「わしはどうだ」
「陛下でございますか」
「どうだ」
「おそれながら弱者におわします」
「わかっている」
項羽に対しては百戦百敗してきた男が強者であるはずはない。

「今夜、この劉邦が楚城へ不意打ちをかけるというのか」
「いや、それはなさいませぬ。理由は……とても」
「勝ち目がない」

「それは、陛下がご自分を強者だとお思いになったことがないからでございます」
「そのとおりだ。男としてくやしいが、こればかりはどうにもならない」
「ふしぎなことに、陛下の場合、ご自分を弱者だと思いきめて尻餅をおつきになっているその御人柄がそのまま徳になっておわします」
(ーー徳?)
わしに徳などあるだろうか

「陛下は、御自分を空虚だと思っておられます。際限もなく空虚だとおもっておられるところに、智者も勇者も入ることができます。そのあたりのつまらぬ智者よりもご自分は不智だと思っておられるし、そのあたりの力自慢程度の男よりも御自分は不勇だと思っておられるために、小智、小勇の者までが陛下の空虚のなかで気楽に呼吸をすることができます。それを徳というのです」

「さらに陛下は、、欲深の者に対して寛容であられます。乱世の雄の多くは欲深で、欲によって離合集散するのです。欲深どもは、陛下のもとで辛抱しておれば自分の欲を叶えてもらえるとおもって、漢軍の旗の下に集まっているのです」

「治世の徳ではありませぬ。三百年、五百年に一度世が乱れるときには、そのような非常の徳の者が出てくるものでございます」

「項羽はどうだ」
「項王にはそのような徳はありませぬ。このため笵増をうしなっていまは謀臣がなく、また韓信ほどの大器を一時は配下にしていながらその才を見ぬけず、脱走させてしまっています」
「韓信のことは、べつだ」
「しかし韓信は楚につこうとはしておりませぬ。それだけでも陛下は多(た)となさるべきです」
「それもそうだ」

張良にいわせれば、項羽は空虚ではない。天地に千万の電光を奔(はし)らせるほどに勇と才で充実している。
「すると、項羽の天下になるのか」
劉邦が顔をにわかに赤黒くして言ったが、張良はただ、
「天」
といったきり答えなかった。

この和睦の条件は、項羽をよろこばせている。
「大王の損でござる」
「なにをいうか」

翌朝、陽がのぼると、霧が深くなった。
両軍は旗をおろし、乳色の霧の中をくだりはじめた。

張良は…陳平の陣へゆき、
「陛下の幕営へゆこう」
「私がなにを陛下に献言しようとしているか、君ならわかるだろう」
「わからないか」
「どうだ」
「想像はできるが、言えない」
「漢軍は弱い」
「どうにもならぬほどの弱さだ」

「それでは、いまこそ千載一遇の機会だと思わないか」

「むりだ、子房さん」

「待つ?待って何になる。待てば項王に勝てるというのか」


「約を違えよというのか」

「全軍を旋回して項羽を追撃しても勝つかどうかはわかりませぬ。しかし追撃なさらねばいずれ、陛下の御首が項羽の前に落ちるということだけは確実でございます」
「確実か」
「陛下、陛下を救うのは御決心だけでございます」
「諸将をあつめよ」

「彭城に帰れば、腹が裂けるほど食わせるぞ」

劉邦は、すでに決断した。
「項羽を追うのだ」

項羽は、劉邦の追尾に気づいた。
「なんというやつだ」

「大変なことになった」
「子房、わしには、自信がない」
「それでは戦わずにお逃げになりますか」
「むりをなさらなくてもいいのです」

「陛下には、まだ機会があります。項羽にとってはこの決戦が最後の機会になるでしょう」
劉邦はおどろき、
「ーー項羽が」
と絶句した。
「しかも、項羽軍は孤軍です」
「孤軍ということでは、わしも同じだ。韓信、彭越が来ない」
「陛下にはまだ来ないという韓信、彭越がいるのです。項羽は来ない者すら持っておりませぬ」

劉邦の弱者としての政略や戦略の布石が、ようやく生きはじめたのである。
「わしのほうにむしろ分(ぶ)があるというのか」
「わずか髪一筋のちがいとはいえ、陛下の方に分がございましょう」
「わしはすでに百敗してきた」
「百敗の上にもう一敗を重ねられたところで、何のことがありましょう」

楚軍のほうでも、はげしく戦鼓が鳴った。
漢軍の先鋒は一撃で粉砕された。第二陣もたちまち崩れ、それらが退却して第三陣になだれこみ、いっせいに逃げはじめた。楚軍がそれを追い、思うまま斬ったり突いたりした。
劉邦も馬首をひるがえして逃げた。


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