気に入らぬ風もあろう
十、仙涯(せんがい)
「日田さん、見ていてください。国岡商店をもっと大きな店にしてみせます」
「命乞いの茶碗」
「うらめしや
わがかくれ家は
雪隠(せっちん)か
来る人ごとに
紙おいてゆく」
「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
…外地での商いにはさまざまな軋轢や衝突があるだろう、しかしそれらをうまく受け流し。大地にしっかりと根を下ろせ
「お話があります」
「どげんした? あらたまって」
「離縁していただきたく存じます」
─
鐡造はユキを抱きしめた。妻を抱きしめるのはこれが最後かと思うと、涙が止まらなかった。
大正とは激動の時代であったと思った。
しかし本当の激動の時代がこの後に押し寄せることになるのを、鐡造も国民の多くも知らなかった。
十一、世界恐慌
昭和元年はわずか七日で終わり、年が明けて昭和二年(一九二七)になった。
鐡造は知人の紹介で、山内多津子と結婚した。
大倉大臣が予算委員会でとんでもない失言をした。「本日、経営不振の東京渡辺銀行が破綻した」
→昭和金融恐慌
…鈴木商店破産
…台湾銀行休業
→高橋是清
…片面だけを印刷した二百円札
…五百円以上の預金引き出し停止
→五大銀行(三井、三菱、住友、安田、第一)
「昭」は明るく照らす
「和」は「仲良く」
「昭和」は、明るい未来に向けて万人が仲良く平和に暮らすことを願って付けられたものだった。
「うちの店のいちばんの財産は人だ。人こそ資産だ。うちの社員はどこにも負けない」
「国岡鐡造とはどういう人物だ」
「底知れぬ男です」
翌年、満州で大事件が起こった。
昭和三年(一九二八)六月、満州の支配者である張作霖が列車ごと爆発されたのだ。
昭和四年の秋、アメリカのニューヨークのウォール街で起こった株式の大暴落をきっかけに始まった世界恐慌。
全世界で五千万人を超える失業者。
年があけた昭和五年の失業者は三百万人にものぼった。
昭和六年九月、南満州鉄道の線路が奉天郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で何者かによって爆破された。→「満州事変」→「十五年戦争」
翌七年、「五・一五事件」→「満州国」
満州国の国家元首(後に皇帝)には清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就任した。
国際連盟加盟国の多くは、これを日本の傀儡国だと見なし、独立国として認めなかった。日本はこれを不満として、翌八年に国際連盟を脱退。
鐡造は四十七歳になっていた。
「中国との全面戦争はなかろう。中国政府は自国の統一さえもままならない状態ばい。とても日本との全面戦争は無理たい」
十二、上海
「親方日の丸の商売がうまくいくはずはないです。役人は基本的に金を使うのが仕事ですから」
「石油小売店ごときに心配してもらうほど、満州国はちっぽけな国ではない」
「お帰りいただこう」
「これは砲弾だ」「まずはこの金で倉庫を手に入れてほしい」
「必ず、敵の要塞を破壊してみせます」
「わが社の利益は考えなくてもいい。どんな手を使ってでも、クニオカをつぶせ」
販売店はあくまで囮(おとり)だった。
外油がダンピングしている地域を避けて、ゲリラ的に灯油を販売した。外油がそれに気づいて、国岡商店の販売している地区でダンピングを実施すると、もうそのときは長谷川たはちは別の地域で販売していた。
十三、日中戦争
昭和十一年(一九三六)二月二十六日早朝、日本全土を震撼させる出来事が起こった。
後に「二・二六事件」と呼ばれる。
昭和十二年七月「盧溝橋事件」「通州事件」
上海「第二次上海事変」
→「支那事変」「日華事変」
「国家総動員法」
佐藤賢了陸軍中佐「黙れ!」
戦争には常に双方の立場から見た正義がある。
十四、石油禁輸
「何という矛盾だ」
「ただの空き地を厳重に警護し、日本にとって重要なタンクを放置するとは。こんなことをやっていて、はたして戦争に勝てるのか」
「バスに乗り遅れるな」
「日独伊三国同盟」
「大政翼賛会」
「要塞地帯法中改正法律案」
「大きな声を出して怒鳴るのが陸軍の悪い癖だ。声の大きさなら、ぼくのほうが大きい!」
「ほう、ゼロ戦闘機ですか。何とも不思議な名前ですな」
「ご苦労様です」
胸の名札に「宮部」
十五、南方へ
金儲けの機会とあれば、たちまち喰らいついてくる。
現地の連中はあえて国岡商店を外している──それに気づいた瞬間、この会社はやはり利権を狙ったものであるという確信を得た。
「兵隊さんたちも命を的にして日本のために戦っています。商人もまた日本のために戦う所存です。もし万が一、これで国岡商店が倒れるようなことがあっても、日本のためならば後悔はありません」
こんな男ははじめてだった。
「国岡は頭がおかしい」
「今、日本全体に船が足りていないのです」
数日後、海軍から、日章丸が戦没したという報せが届いた。
十六、敗戦、
「長谷川」「しばらく内地でゆっくりしていけ。昭南に戻るのは年が明けてからでいい」
「いや、現地では私の帰りを皆が待っています。来週には戻ります」
それが鐡造の見た長谷川の最後の姿だった。
「昭一は日本男児だ。敵から逃れることは許されない」
このとき、日本の備蓄石油はほぼゼロに等しく、これ以上戦う力はどこにもなかった。
心に残る名言・座右の銘 名言まとめノート
「気に入らぬ風もあろうに柳かなの名言」
名言 『気に入らぬ風もあろうに柳かな』
作:仙 義梵(せんがい ぎぼん) 江戸時代後期 臨済宗の僧侶。
仙 和尚は、 「私の絵に決まりはない」と異色の禅画を描いた。
気に入らぬ風もあろうに柳かな
(引用元:とんとん・にっき)
中央に柳の木を描いた「堪忍柳画賛」。 その画の左側に記されているのがこの文字である。
〜気に入らぬ風もあろうに柳かな〜
右には大きく「堪忍」と添えられている。
意図するのは、 "気にくわぬこともあるが、 柳のように何事も受け流しなさい" といったところでしょうか。
この文句は 間違いなく座右の銘、名言として広く扱われており、 落語、「天災」にも出てきます。