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尖閣問題と集団的自衛権

2013年11月12日 (火) 16:05
尖閣問題と集団的自衛

レポート:尖閣問題と集団的自衛権
月刊公明2013年12月号
前関西学院大学教授 豊下稔彦先生
(とよした のりひこ)

ポイント
●尖閣問題は日本の挑発で起きた。
●尖閣5島の内2島は今も米軍の管理下
●「棚上げ」は日本にとって不利にはならない
●集団的自衛権の政府解釈の変更は恣意的
●イラク戦争の総括が先
●日本は「安全保障ジレンマ」からの脱却に主導権を

●尖閣問題は日本の挑発で起きた
「3日と63日」──前者は、昨年9月11日に日本政府が尖閣問題の国有化を決定する以前に中国船が領海侵入した年間の日数。後者は、国有化から1年の間に侵入した日数である。一目瞭然、尖閣の国有化こそが、日中関係を劇的に悪化させる最大の契機であった。

そもそもそれは、昨年4月に当時の石原慎太郎東京都知事が、都による尖閣問題の買い上げの方針を打ち上げ、世論の反中感情と領土ナショナリズムを刺激したからである。

では、石原氏の狙いはどこにあったのであろうか。それは「国が買い上げるとシナが怒るからね」という発言に端的に示されている。つまり、中国が激しく反発することを見越した上で、政府をして国有化に踏み切らせたところにあった。この意味からすれば、「不測の事態」さえ予測される現在の緊迫した日中関係は、石原氏の狙い通りの展開とも言える。

● 尖閣5島の内2島は今も米軍の管理下
しかし実は、尖閣問題が重要な焦点となってきたにもかかわらず、その本質的な問題が議論されていない。

それは、尖閣の主要5島のうち久場島と大正島が今なお、射爆撃の訓練場に使用するとの名目で米軍の管理下に置かれ、日本人が立ち入れない区域になっている。しかも、実際は30年以上も使用されていないにもかかわらず、日本の歴代政権は返還さえ要求してこなかったのである。

ところが米国は、5島のうち2島までも日本から提供を受けながら、1971年の沖縄返還協定締結の前後から「中立」の立場をとっときたのである。
1960年代の末になって尖閣諸島の海域で海底資源の埋蔵可能性が出てきた段階で、中国や韓国が突如として領有権を主張したにもかわらず、当時のニクソン政権は、「米中和解」を前にした中国や台湾への政治的配慮から「あいまい戦略」を採用したのである。
そこはまた、紛争の火種を残しておくことによって、在日米軍のプレゼンスの正当化をはかる狙いがあった。
しかし今や、尖閣をめぐって日中両国が激しく対立するなかで、まさに、「あいまい戦略」のツケが回ってきたといえる。
例えば、仮に中国の「漁船員」が久場島に上陸するならば、その排除責任は法的には、同島を管理下におく米軍が負わねばならないのである。
つまり、安保条約の適用以前の問題として、米国は当事者として対処を迫られるのである。

●「棚上げ」は日本にとって不利にはならない
だからこそオバマ政権は、野田政権の国有化の方針に対し、中国との関係で「危機を引き起こす可能性がある」と警告を発し、国有化に踏み切らないように、「非常に強い忠告」を行っていたのである。

つまり、ここで極めて重要なことは、尖閣諸島の国有化が米国からしても、日本による中国への“挑発”とみなされていた、ということである。
とすれば、尖閣諸島をめぐるこの間の日中関係の急激な悪化は、中国の外洋への「拡張主義」の現れであるとともに、何よりも日本側からの“挑発”がもたらした結果なのである。

では事態をいかに収束させればよいのであろうか。なすべきは、「固有の領土」論に固執することなく、事実として「領土問題」の存在を認め、72年の日中国交回復以来の問題の「棚上げ」という原点に戻り、海底資源や漁業問題で具体的な協議に入ることである。

「棚上げ」は現状を追認することであり、日本にとって決して不利な問題ではないのである。
ところが安倍晋三首相は、「一切の妥協はできない」との立場に固執するばかりである。
しかも、それにとどまらず、国有化以来の日中関係の緊迫化を重要な根拠として、国際環境の「激変」を強調し、集団的自衛権の解釈変更を推し進めようとしている。

●集団的自衛権の政府解釈の変更は恣意的
集団的自衛権に関し、「国際法上権利は保持しているが、憲法上行使できない」とするのが、72年10月の田中角栄以来の「政府見解」である。

そこではまず集団的自衛権を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」と規定する。

その上で、個別的自衛権であっても「他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と断じたのである。

「必要最小限度の範囲」とは、「数量的概念」にあるのではなく、集団的自衛権は「わが国に対する武力の発生という自衛権行使の第一要件を満たしていない」からこそ、憲法上行使が許されないと、一貫した立場であったのである。

今日、安部首相や「安保法制懇」ばかりでなく、政界やメディアにおいても、「必要最小限度の行使」といった論調が広く見られるが、72年「政府見解」以来の一貫した政府解釈の恣意的な修正という以外にない。

●イラク戦争の総括が先
安部首相の考える集団的自衛権の行使の対象国は、言うまでもなく米国なのであるが、その米国が行ってきた「自衛権」の行使は、しばしば国連憲章51条に反するものである。

イラクは大量破壊兵器を製造する「能力」をもっており、米国への「悪しき企み」を抱いており、従って数年後には米国に「危害を加える」ことになるであろう、ということであった。

つまり問題は「武力攻撃の発生」ではなく、米国に敵対するイラクの「能力と意思」なのである。これは言うまでもなく「予防戦争」の論理であり、イラク戦争は明らかに憲章51条に反する戦争である。しかも重要なことは、イラク戦争を批判したオバマ政権も、この「ブッシュ・ドクトリン」を公式には否定していない。

そもそもイラク戦争とは何であったかの、総括なしに集団的自衛権の行使に道を開くならば、再びイラク戦争のような戦争が起こり、日本が集団的自衛権を行使できるなら、自衛隊は戦闘舞台として、憲章51条に反した「予防戦争」に赴くことになる。

●日本は「安全保障ジレンマ」からの脱却に主導権を
今日の最大の課題は、集団的自衛権にあるのではなく、日本の孤立さえ危惧される東アジアの巨大な構造変動を深く検証し、そこにおいて日本が立つべき位置を明確化させ、戦略的な外交戦略を再構築することにある。

その際、関係諸国が自らの安全を確保するために、軍備増強を行うと「軍拡競争」に拍車がかかり、結局は安全が危うくなるという「安全保障のジレンマ」に地域社会全体がはまり込む事態を「阻止」し、そこからの「脱却」をはかる方向で主導権を発揮することこそ、日本外交の最重要課題に設定すべきである。


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