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民音・指揮コンクール 明年秋の開催へ
――審査委員が展望を語る
2018年の第18回「東京国際音楽コンクール<指揮>」の本選(東京オペラシティコンサートホールで)。1967年に第1回が開催されて以来、“指揮者の登竜門”として世界的なコンクールに発展している
国内外の指揮者がその実力を競う、民主音楽協会(民音)の「東京国際音楽コンクール<指揮>」。3年に1度の同コンクールは、現在、第19回となる明年秋の開催を目指して準備が進む。今回、新たに審査委員長に就任した尾高忠明氏と、審査委員の広上淳一氏に、同コンクールの歴史と展望について聞いた。
●審査委員長 尾高忠明氏
●世界に誇る指揮者の祭典
――第4代の審査委員長に就任されました。
齋藤秀雄先生、朝比奈隆先生、外山雄三先生と、日本を代表する指揮者が、代々の審査委員長を務めてこられました。身の引き締まる思いです。
コンクールが発足したのは、私が大学生の時です。齋藤先生に指揮を学んでいました。
当時は、自分の力を試したくても、その機会がない。ピアノも声楽も、それぞれコンクールがあるのに、指揮だけがなかった。海外のコンクールに参加しようと思った矢先、先生が「とうとう指揮のコンクールができるぞ! 民主音楽協会が力を貸してくれた」と。あのうれしそうなお顔は忘れられません。
あれから50年余り。今、活躍する指揮者の経歴を見ると、国内外を問わず、民音のコンクールから数多くの人材が生まれていることが分かります。
●審査委員 広上淳一氏
●若き“才能の原石”に光を
――広上さんご自身、民音の指揮者コンクール“出身者”です。1982年の第6回コンクールが、人生の転機になったと伺いました。
中学時代から指揮者を目指していましたが、親は反対でした。一人息子の私には安定した道に進んでほしかったみたいです。音楽大学に進んだものの、卒業までに物にならなければ方向転換する、と約束していました。
そして、まさに大学4年の時に挑戦したのが、この民音のコンクールです。指揮者を志して10年、周りから散々言われ、自分自身、才能がないのではと疑心暗鬼になっていた頃です。
結果は「入選」。本当に驚きました。当時の審査委員長が、“皆さんは指揮者としての可能性を持っている。さらに勉強を頑張ってください”とおっしゃいました。この言葉が、ものすごい勇気をくれました。
その2年後、キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールで優勝できたのも、民音のコンクールが与えてくれた勇気のおかげだと思っています。民音のコンクールがなければ、指揮者・広上淳一は存在しません。
――民音のコンクールの歩みを、どう評価されますか。
日本は、東洋の端にある小さな国です。明治維新以降、西洋をはじめとするさまざまな文化を吸収し、成長してきました。
この日本から世界へ、民音のコンクールは、有望な指揮者たちを送り出してきました。これは、真似したくても、できるものではありません。財政面、運営面、人材確保と、さまざまな難しさがあるからです。
民音のコンクールは、すでに半世紀の実績をもち、さらに次の半世紀に向かって確かな歩みを続けている。世界に誇れるコンクールだと自負しています。
民音の関係者、その母体となっている全ての方々に、心から感謝申し上げます。
――審査委員として、何を大事にされていますか?
今や世界中のオーケストラのレベルが向上し、若い人が指揮台に立つ機会も増えました。コンクールへの参加者も、すでに、ある程度の技術を身に付けた人たちが多い。グローバル化が進む中で、海外のオケの音楽監督や常任指揮者を務めるような方もエントリーしてきます。
これはもちろん、素晴らしいことです。ただ一方、これから勉強を重ね、チャンスをつかむ若い人には、どうしても不利になってしまう。昔は、僕のように、実際にオーケストラで指揮を振った経験がない人も、たくさんいたわけです。
才能の原石を見つけ、それを応援する。この民音のコンクールがもつ初心を、大事にしていきたいです。
――今の指揮者に求められる力とは?
かつて指揮者は絶対的権力者でした。音楽的な才能に長けた、哲学者であり、演説者であり、教育者でもある。そうした人が、楽団員たちから尊敬され、マエストロと呼ばれました。
今は民主的な世の中です。楽団員の能力も格段に上がっています。指揮者が絶対的な命令を発して、従わせるという発想では、物事は上手くいきません。
目の前に集まった人たちとの調和を大切にし、最高のものを引き出していく。そういう理念をもった、人間的魅力にあふれる指揮者が、必要とされる時代になっていると思います。