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第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶
第17回「師と共に刻んだ第一歩」
きょう「世界平和の日」60周年
太平洋に輝くハワイから広布の大航海へ
●小説『新・人間革命』の挿絵を担当した内田健一郎画伯が、「10・2」60周年を記念して、当時の出国の様子を描いた「世界広布への旅立ち」
きょう10月2日は「世界平和の日」。1960年(昭和35年)のこの日、池田大作先生が初の海外指導に出発してから、60周年の佳節を迎えた。
先生は東京から出発する際、見送りに訪れた人々に言った。「世界広布の第一陣、元気で行ってまいります」
終戦から15年、海外への渡航そのものが、まだ珍しい時代だった。32歳の若さで第3代会長に就任してから、わずか5カ月しかたっていない。だが世界への“平和旅”は、断じて踏み出すべき、広布誓願の一歩だった。
恩師・戸田城聖先生は「地球上から悲惨の二字をなくしたい」と願い、希望の未来図を胸に描いていた。逝去の直前、「君の本当の舞台は世界だ。世界へ征くんだ。この私に代わって」と池田先生に述べ、悲願を愛弟子に託していたのである。
●池田先生が1960年当時に使用していたパスポート。中のページには、羽田空港から出国した「10月2日」と帰国した「10月25日」の日付の入ったスタンプが押されている
先生の最初の目的地は、アメリカ・ハワイ。太平洋戦争の開戦の地である。座談会には、戦争によって日米のはざまで辛酸をなめた日系2世の友、アメリカ人と結婚して日本から渡米した女性らが集っていた。
言葉の壁に苦しみ、日本に帰りたいと泣く女性に、先生は「真剣に信心に励むならば、あなたも幸福になれないわけは断じてない」と渾身の励ましを送る。悩める目の前の友を包み、信心で蘇生させゆく地道な行動から、偉大な妙法流布の旅路は始まった。
続いて訪れたサンフランシスコでの座談会。横浜で入会し、戸田先生から“世界広布の先頭に”と激励された、アメリカ人の夫と日系人の妻がネバダ州から遠路駆け付けた。
夫は20代。先生はその真剣さに触れ、地区部長への抜擢を即決。日系のメンバー以外で初の地区部長である。ネバダにいる同志はわずか4、5人だった。しかし男性は折伏・弘教に奮闘し、後年にはサイパンでもリーダーを務め、約50年にわたって、生涯、師弟一筋に走り抜いていく。
次いで先生はシアトル、シカゴを経て、カナダへ。空港で、一人の若い女性が声を掛けてきた。入会はしていない。日本にいる母から出迎えるよう言われたという。先生は礼を尽くし、真心を尽くして励ました。彼女は後に入会し、カナダのリーダーとして広布の礎を築いていく。
ニューヨークでは、国連本部を視察。議場でアフリカ諸国の代表の生き生きとした姿を見て「21世紀はアフリカの世紀になる」と確信する。
さらに首都ワシントンを訪れ、ニューヨークに戻り、そしてブラジルへ。
多忙な日程のため、先生の体調は優れなかった。同行の幹部はブラジル行きの中止を勧めるが、先生は断言した。「絶対行く。たとえ、そこで倒れたっていいではないか」
サンパウロでは、苦難を越えて信心を貫く日系移民1世の友を激励。この時、海外初の支部が同国に誕生した。
最後にアメリカを再訪し、ロサンゼルスへ。ここでも支部を結成。カリフォルニア大学ロサンゼルス校を視察し、創価大学設立の構想に思いを巡らせた。
●香峯子夫人から池田先生に贈られた旅行カバン。先生はこれを手に世界を駆け巡った
24日間、3カ国9都市にわたる初の海外指導。先生は学会の内外を問わず、出会った“一人”の生命に平和の種を蒔いた。その種は芽を伸ばし、やがて大樹に。そして森となって、世界五大州に今、福徳の花々が咲き薫る。
“戦争の世紀”から“平和の世紀”へ――先生が開いた平和・文化・教育の大運動に、“「新・人間革命」世代”の青年が陸続と連なり、勢いを増している。