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◎村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまった。
◎革命暦(共和暦)は遡ってフランス革命により王政が廃止された翌日のグレゴリオ暦1792年9月22日(秋分)を共和暦元年元日(紀元)とし、これに基づいて加算する紀年法である。暦が採用された日はグレゴリオ暦で1793年11月24日だが、これは革命暦では共和暦2年フリメール4日と表記された。
◎プラザ合意(プラザごうい、英: Plaza Accord)とは、1985年9月22日、先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議により発表された、為替レート安定化に関する合意の通称。その名は会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のプラザホテルにちなむ。
◎吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
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0186〜0237 開目抄 0203:15〜0204:17
第29章 二乗の法華深恩を論ず
本文
夏の桀・殷の紂と申すは万乗の主・土民の帰依なり、しかれども政あしくして世をほろぼせしかば今に・わるきものの手本には桀紂・桀紂とこそ申せ、下賤の者・癩病の者も桀紂のごとしと・いはれぬればのられたりと腹たつなり、千二百・無量の声聞は法華経ましまさずば誰か名をも・きくべき其の音をも習うべき、一千の声聞・一切経を結集せりとも見る人よもあらじ、まして此等の人人を絵像・木像にあらはして本尊と仰ぐべしや、此偏に法華経の御力によつて一切の羅漢帰依せられさせ給うなるべし、諸の声聞・法華を・はなれさせ給いなば魚の水をはなれ猿の木をはなれ小児の乳をはなれ民の王を・はなれたるが・ごとし、いかでか法華経の行者をすて給うべき
現代語訳
夏の桀・殷の紂と申すは、万乗の主であり土民の帰依するところであった。しかれども、悪政のため世をほろぼしてしまったので、今日でも悪人の手本には桀紂・桀紂というではないか。下賎の者や癩病の者でさえも「お前は桀紂のようだ」といえば、バカにされたと思って腹が立つのである。このように、国王であっても、無徳ならば、だれも崇めることはないのである。千二百の声聞も無量の声聞も、法華経が説かれなかったならば、だれがその名すら聞くことがあろうか。またこれらの声聞が出す声も、習うことはないはずである。一千の声聞が一切経を結集したと見る人もないであろう。ましてこれらの人々を絵像・木像にかきあらわして本尊とあおぐわけがない。これひとえに法華経の御力によって一切の羅漢たちは大衆に帰依される身となったのである。もろもろの声聞は法華経から離れたならば、魚が水から離れ、猿が木から離れ、小児が乳をはなれ、民が王から離れたようなものである。どうして法華経の行者を捨てようか。