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◎本郷和人教授
久米邦武………神道はおまじない?
佐賀藩出身、東京帝国大学教授
「神道ハ祭天ノ古俗」
を主張し、帝国大学教授を辞し、現早稲田大学へ。
直訳すると、「神道は天を祭る古くさい慣習」
神道というのは、天照大神ほかの神様を祭る宗教となっているが、実態は慣習とかおまじないの域を出ない。キリスト教やイスラム教や仏教などの世界標準の宗教とは性格を異にする。
神道には聖典がない。………教義もない。
☆全くその通り??
神道は「清らかであれ」と教えた。
………学問とは縁遠い庶民には、なにより実践的かつ効果的な教えではなかったか。
………手荒い、うがいで身を清める。それが日々のマナーになっているからこそ、今回のコロナ禍において、被害が外国に比べて少なかったのではないでしょうか。
☆全くその通り??
☆久米邦武筆禍事件(くめくにたけひっかじけん)とは、久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」を1892年(明治25年)に田口卯吉が主宰する『史海』に転載したのをきっかけに問題となり、帝国大学教授職を辞することとなった事件。
この問題は、学問の自由(特に歴史学)と国体とのかかわり方について一石を投じ、政治に対する学問の独立性および中立性を考えさせるものになった。
経過
1891年1月 - 「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』に発表する。
1892年 - 『史海』に転載する。このとき、主宰者の田口卯吉は以下の文を掲載し、神道家を挑発する。
「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシテ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サザルベカラズ」
1892年2月28日 - 神道家の倉持治休、本郷貞雄、藤野達二、羽生田守雄が久米邦武に詰め寄り、論文撤回を要求する。
1892年3月3日 - 久米は新聞広告を出し、論文を取り下げる。しかし、主張は曲げていない。
1892年3月4日 - 久米は帝国大学教授職を非職