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きょう「8・24」 池田先生が全同志に和歌
きょう8月24日は、池田大作先生が1947年(昭和22年)に入信して73年。恩師・戸田城聖先生と機関紙発刊の構想を語り合った50年(同25年)の「聖教新聞創刊原点の日」から満70年を迎える。池田先生は、記念日に当たって、全国・全世界の同志に3首の和歌を詠み贈った。
この時を
願い涌現の
後継なれば
若き誓火で
闇うち晴らせ
妙法の
大良薬を
地球民族へ
いのちの医王ぞ
創価の師弟は
霊山の
一会ここにと
聖教は
世界むすべや
平和の仏智で
●嵐の中で恩師が弟子に託した創刊構想
広宣流布のための機関紙を持つ構想は、創価の師弟が大試練の渦中にある時に生まれた。
1950年(昭和25年)8月24日、戸田先生は東京・虎ノ門の喫茶店で、ある新聞記者と向き合っていた。その傍らには、22歳の池田先生がいた。折からの経済不況で、経営する信用組合の破綻が決定的になった。その噂を察知した記者が、スクープを物にしようと近づいてきたのである。
この前日、池田先生は、訪ねてきた記者と会っていた。先生は訴えた。
――もとより、戸田先生は逃げも隠れもしない。だがいい加減なことを書かれてしまえば混乱し、清算事務も危機に陥ってしまう。
理を尽くし、誠実に、長時間にわたって事情を説明した。また、敬愛する師の人間像についても語った。そして、翌24日、戸田先生を交えて会見することを約束したのだ。
戸田先生は、悠然と記者に対した。事態打開の道筋を語り、必ず社会的な責任を果たすことを言明。無用な混乱を招かぬ為に、報道はしばらく控えてほしいと、率直に伝えた。
記者は、困惑しながらも、意を決するように言った。「わかった。よし、待ちましょう……」。社会不安をあおるような記事が出ることはなかった。
その帰り道、戸田先生は、歩きながら池田先生に言った。「これからは“文”の戦いだ」「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならない。大作、よく考えておいてくれ」
この日夜、戸田先生は、事業のことが波及しないよう考慮し、学会の理事長辞任の意向を発表した。
池田先生は、この日で入信満3年。棘の道を進む中で、師の言葉を余さず生命に刻んだ。
この8月24日が、後に「聖教新聞創刊原点の日」として輝く、歴史的な一歩となる。
●「聖火鶴見に炎上」の陰にあった闘争
戸田先生と池田先生の師弟の語らいによって生まれた聖教新聞。創刊号には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍った(小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)
いざ事業が危機に陥ると、多くの人々が戸田先生のもとを去っていった。池田先生は、ただ一人になろうとも、活路を開くために戦い抜くと誓っていた。
先生は、その決意を一首の歌に託して、戸田先生に贈った。
「古の
奇しき縁に
仕へしを
人は変れど
われは変らじ」
苦境の時代、池田先生が仕事で毎日のように訪れた地がある。神奈川の横浜市鶴見区だ。
草創の広布を開いた柱の一つ「鶴見支部」の拠点もあった。先生は激務の間隙を縫うように、愛する同志を励ましていった。
病床に伏す壮年の手を取って「苦難が多ければ多いほど、幸せも多いです」と御本尊への確信を語る一方、継ぎはぎだらけの“もんぺ”をまとった女性たちには“この信心で、貴婦人になっていきましょう”と明るく声を掛けた。
誰もが貧しく、皆、生活闘争に真剣だった。
先生自身、冬でもコートがなく、レインコートを着て鶴見に来ていた――ある友は、そんな様子を記録している。恩師の仕事の重責を担いつつ、広布開拓に死力を尽くす闘争が、同志の心に火を付けた。
そんな秋霜烈日の50年(同25年)12月、東京・新橋駅近くの食堂で、戸田先生は再び池田先生に言った。「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
その2カ月後には、「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやろうじゃないか!」と――。
●「一万号 ついに登れり 聖教山 万歳」
――1990年(平成2年)7月19日付で本紙が1万号を迎えた際に池田先生が贈った句。「聖教の皆様 本当に御苦労様です。 合掌」との言葉と共に
【寸鉄】
池田先生の入信記念日。
世界広布を実現した73年
後継よ偉大な闘争に続け
◇
「師子王は前三後一」御書
次の一歩に全力!幹部の
祈りと励ましが躍進の鍵
◇
男女青年部がオンライン
で決意の集いを活発に。
各地で新入会者も続々と
◇
今年の酷暑は従来の常識
通用せずと。夜の室内が
最も危険―空調等を活用
◇
正義の師子吼放つ希望の
言論城。更なる紙面充実
誓う。本紙創刊原点の日
名字の言 きょう「聖教新聞創刊原点の日」
スイスの哲人ヒルティは、1月1日から12月31日まで日ごとに思想をつづった名著『眠られぬ夜のために』を残した▼本紙創刊記念日でもある4月20日の欄には、「この世界におけるただ一切の善事だけを報道して、(中略)くだらぬ事柄には見むきもしないというような新聞なり、評論誌なりを、われわれは持つべきであろう」(草間平作など訳)と論じている▼ヒルティは常に善悪を鋭く洞察した。「この世において悪の力が強いのは、全く、事にあたって生ぬるい人たちの恐怖心と不信仰とにもとづくものである」。悪を助長するものは、悪自体の力が強大であることよりも、正義が弱いことに起因するものだ▼きょう24日は「聖教新聞創刊原点の日」。70年前の1950年(昭和25年)のこの日、池田先生は恩師・戸田城聖先生と初めて広布の機関紙の構想を語り合った。そして翌年4月20日、本紙は創刊された。正義の論陣で正邪や善悪を明らかにし、正しい人間が正しく栄える時代を築こうとの思いで新聞発刊は決断されたに違いない▼池田先生は「民衆を賢明にし、民衆を強くし、民衆を団結させる――創刊以来の聖教新聞の使命である」と。この使命への挑戦に終わりはない。混迷の現代を確かな未来へ転換させるための“時代の要請”でもある。(代)