???????????????????????
〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞く ?部〉第20回 「大衆とともに」――公明党の結党?
◆林 公明政治連盟(公政連)は結成後、初めて挑んだ1962年(昭和37年)7月の参院選で、立候補した地方区2人、全国区7人の全員が当選し、非改選の6人と合わせて、15人になります。
これによって、参院で第3党(会派)になり、政治の世界で大きな意味をもつ、「院内交渉団体」の資格を得て、「公明会」を結成しました。
◇原田 公政連の躍進は、新聞各紙でも注目されます。
小説『新・人間革命』第6巻「波浪」の章に描かれていますが、一方で、その反動から、秋田・尾去沢鉱山や長崎・佐世保の中里炭鉱などの労働組合で、学会員への陰湿な圧迫が起きました。
組合が推薦した候補の票が思ったよりも伸びず、公政連の候補の票が驚くほど多かったことが、その理由です。この二つの出来事は、学会員が訴えた裁判で勝訴するなど、決着をみますが、学会への社会的な圧力は、一段と強くなるのです。
先生は、「学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から、時代の建設という、波浪の猛る大海に乗り出したのだ」と記されています。「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」こそが、池田先生の座右の銘です。
公明選挙、政界の浄化を掲げた、民衆による新しい草の根の挑戦は、傲慢な既成勢力からのやっかみ等による迫害に直面しましたが、学会は全てを勝ち越え、発展してきたのです。
◆樺澤 当時、世間では、学会の崇高な目的が理解できず、さまざまな臆測が流れていました。そこで、参院選を終えた直後の本部幹部会で、池田先生は次のように明快に言われます。
「宗教団体である学会が担う第一の使命は、正しき仏法の流布であります」「政策の問題については、公政連、並びに公明会に、すべてお任せをしたいと考えております」
●誰も置き去りにしない社会へ!
◆大串 62年9月、公政連は結成後初の全国大会を、東京・豊島公会堂で行います。
来賓として招かれた先生は席上、公政連の議員のあり方について、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆のなかに入りきって、大衆のなかに死んでいっていただきたい」と語られています。現在の公明党の原点といえる指針です。
◇原田 発足当初、公明党は「大衆福祉」をスローガンに掲げました。既成の政党・政治家からは、「福祉なんて政治ではない」「政治は慈善事業ではない」「素人」と陰口をたたかれたり、嘲笑されたりしました。
しかし今や、どの政党も、庶民の生活の大事なポイントである「福祉」「社会保障」を政策の柱に掲げています。
SOKAチャンネルVODの番組「大衆とともに〜公明党の誕生」で、東京家政大学名誉教授の樋口恵子氏は、「福祉という言葉に一種の貧困対策というような考え方が、まだ持たれている時期に、公明党は“これが国の政治の一つの中心ですよ”ということを広げてくれた」と述べています。
また、中学3年生までの教科書無償配布、児童手当の実施なども公明党の実績です。
国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」は、「誰も置き去りにしない」社会を目指したものです。コロナ禍の現在、ますますその重要性が叫ばれていますが、それは現実の政治の世界においても同様です。
先生が示された「大衆とともに」との指針は、時代を経るごとに重みを増しているのです。