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2020.8.17-6

2020年08月16日 (日) 01:07
2020.8.17-

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◎宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。

◎新帝擁立と十月宣旨
7月28日、後白河院は木曾義仲・源行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。後白河院にとって平氏が安徳帝を連れて逃げていったのは不幸中の幸いであり、8月6日に平氏一門・党類200余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月9日条)、16日には天皇不在の中で院殿上除目を強行して、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んだ。院殿上除目に反対していた九条兼実も「異議なし」と屈服し、「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。

◎インドネシア独立宣言(インドネシアどくりつせんげん インドネシア語: Proklamasi Kemerdekaan Indonesia)は、1945年8月17日、スカルノが、ハッタの立ち会いのもとで、中央ジャカルタ東ペガンサアン通56番地(スカルノ邸)で読み上げた、インドネシアが独立したことを宣言する文言である。インドネシア独立宣言草案は、大日本帝国軍政時代にインドネシアに設置された独立準備調査会において起草され、独立準備委員会において採択されたものである。

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0186〜0237 開目抄 0200:02〜0200:16 
第25章 末法法華経行者の所由

講義

「日本国にこれを知れるものは但日蓮一人なり」

 とのおおせは、じつに強きご確信ではないか。文に心を留めて読まれよ。大聖人御一人が知り給うものは何か。あらゆる邪宗が、大衆をして悪道に堕すということをお知りあそばされたのである。ゆえに名誉も栄達をも考える事なく、身を凡愚に具して、身命を捨てて大衆の救済に立たれたのである。末法においてただ一人、民衆救済の大原理をお知りあそばされたからこそ、この御方こそ聖人であり、仏であらせられるのである。この一言の中に大聖人の勇猛心と精進力がうかがわれるではないか。ゆえに六難九易の文を引かれて、強き大決意をお示しあそばされたのである。「この度強盛の菩提心を起こして退転せじと願しぬ」の御一言、強くわれわれの頭上を打つではないか。


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